第2話 額の次は後頭部
別に、砂糖と塩を間違えたとか、辛すぎたとか、そういうのではない。断じてそういうことでは無く。見た目も普通だ。色が悪いわけでも無い。具材は綺麗に切り揃っているし、変な臭いもしない。それなのに、ただただひたすらに不味い。不味い味だと、佐藤は思った。「頭痛が痛い」に似たフレーズではあったが、彼の足りない語彙と舌では、そう表現するのが限界だった。それでもあえて味を表現するなら、彼はきっとこういうだろう。
『これ食うなら、他人のゲロ食ってる方がマシ』と。
飯を食べて死ぬかもしれない。と思ったのは、生れて初めてのことだった。
それでも、佐藤は耐えた。何とか、崖際つま先一つで彼は踏みとどまった。反射的に吐き出しそうになったが、彼を心待ちにする彼女の顔がそれを許さなかった。
佐藤の額から、謎の汗が大量に出た。それから、何故か急に体が熱くなった。
「ど……どうかな。お母さん以外の人に作るのは初めてだったんだけど」
落ち着かない様子でシルワが佐藤に聞いた。この状況で一番避けたい質問だった。もし彼女とある程度の関係を築いていたなら、彼は恐らく何の遠慮も無く自分の感想を正直にぶちまけたであろう。寧ろここでそういう風にぶちまけたほうが彼にとってはまだいい結論になったかもしれない。
しかし、彼のエゴがそれを許さなかった。
「美味しいですよ」
佐藤は自身の顔に笑顔の仮面を被せてそれだけ言った。具体的に何がどう美味しいとか、そういうことを言うと仮面が剥がれ落ちそうな気がしたからだ。
「良かったぁ……」
と、シルワが笑顔で胸を撫でおろす。罪悪感でおかしくなりそうだった。
「と、ところで、シルワさんにいくつか聞きたいことがあるんですが、良いですか?」
目の前の料理から逃れるため、佐藤は話題を変える事にした。
「いいよ? ……って言っても、私はあまりこの森から出たことが無いから、多分そこまで質問に答えられないかも」
「それで構いません。まずは……」
と言いながら、佐藤は質問の内容について考えてみた。しかし、意外にも適切な質問というものは見つからなかった。問題の大きさが大きすぎて、何から手を付けるべきなのか判断がつかなかったのだ。20秒ほど考えたところで、佐藤はある一つのことを思い出した。
「……あの、シルワさん」
「ん?」
佐藤は、一つ深呼吸をした。その言葉を口にするのには、少しだけ勇気が必要だった。
「さっき、森の中で俺が気絶する前に、確か回復魔法って言ってましたよね? ということは、この世界には魔法があるのですか?」
「あるよ」
シルワはあっさりと言った。佐藤は生唾を飲んだ。
「……何か証拠を見せてもらっても?」
「証拠って言われても、何したらいいの?」
「えっと……何が出来るか教えてもらっても?」
「回復魔法と……後なんだっけ。名前を忘れちゃったけど、物を宙に浮かせる事ならできるよ」
「じゃあ、その物を浮かせるほうで。このスプーンをお願いします」
シルワは頷いてから、テーブル上のスプーンに手のひらを向けた。暫くすると、スプーンはひとりでに宙に浮いた。佐藤は驚いた顔をしながらスプーンの周りに手をやって、それが何の物理的な支えも無しに浮いていることを確かめた。
「まじかよ……」
佐藤は天を仰いだ。この世界が、佐藤が元居た世界の常識が通用しなくても、何らおかしくはないことは分かっている。だが実際にこうして目の前で現代の科学では説明できないような現象を見せられると、逆に自分の目や脳に何かしらの異常があるのではないかと、そんな疑念の方が強くなる。
――まあ、それこそ魔法の力でも無ければ、この世界にやってくるのは現状の科学では無理か。今はそういうことにしておこう。
と、佐藤はそう思うことにした。一応、スプーンを手に取って、何の種も仕掛けも無いことも確かめた。
「こういうのって、何か唱えたりするんじゃないんですか? チンカラホイとかビビデバビデブーとか」
「別に? 浮けーって思ったら浮くよ?」
「そんな適当な……」
そう言いながらも、佐藤は机の上にスプーンを置いて、やや緊張しながら置いたスプーンに手のひらを向けた。心のなかで浮け! と叫んでみたが、スプーンはうんともすんとも言わなかった。
「別にガッカリしてないし」
「ふーん」その様子を見ていたシルワが口を開く。「サトウ君の世界には、魔法が無いんだ? なんか不思議な感じ。火とか起こすときどうするの? 魔法が無いといちいち木を擦るとか、火打石使うとか、結構面倒じゃない?」
「俺たちはガスを使いますけど……ガスって言って、分かります?」
「分からない」
「あー、燃える特別な空気があるんですよ。それを使います」
「空気が燃えたら大変じゃない?」シルワが怪訝そうな表情を浮かべて言った。
「物体が燃えるには酸素が必要なんです。ガスはあくまで燃えやすい空気というだけであって、酸素の役割は果たしてないんですよ。ガスは基本的に密閉された空間に閉じ込めてあって――」
そこまで言って、佐藤はシルワの表情を見るに、彼女が全く佐藤の話を理解していないことを彼は察した。彼女が今している呆然と佐藤を眺めるだけの表情は、元の世界で何度も見たことがあるからだ。
「あーその、すごい空気があるってことで納得してください」
「……ごめんね。頭悪くて」
「いえそんな。俺の説明が下手でした」
気まずさを誤魔化すために、佐藤はスプーンを手に取って、スープを掬おうとした。スプーンが液体に触れた瞬間に、それが劇物であることに佐藤は気付いた。
「……やべ」
佐藤はぼそりとつぶやいた。何分、このスープは見た目だけはしっかりとしているのだ。ついうっかり、普通のスープだと錯覚して手に取ってしまっていた。
「何がやばいの?」
と、シルワが訊いてきた。恐るべし聴力だった。
「聞こえてたんですか!?」
「うん。私耳が良いんだ」
「それは……素晴らしいですね」
「それで、何がやばいの?」
「……こっちの話です。スープ、頂きますね」
と言って、佐藤は大きく息を吸った。そして、スープを全力で喉にかき込んだ。しかし、人参やじゃがいもと言った固形物が喉で引っかかり、詰まらせてしまった。
「あー。そんな勢いよく食べちゃだめだよ」
そう言って、シルワは佐藤の背中を何度か叩いた。佐藤の喉の詰まりはすぐに解消されたものの、彼はしばらく咳き込んでいた。
「すみません。つい」
呼吸を整えた佐藤が言った。ある意味でそれは本心だった。
「何事も無いなら良いんだけど……そんなにお腹空いてたの?」
「はい。ですがこのスープのおかげで今はお腹いっぱいです。一度死んだせいか、胃の中に何も入ってない感じがします。胃を驚かせないためにも今は小食で控えるべきです」
佐藤はまくしたてるように言った。
「なので! おかわりは! いりません!」
そして、最も重要な事柄をとても強く言った。彼の眼は血走っていた。それを見たシルワは、困惑した表情を浮かべていた。
「う、うん。じゃあ片付けるね?」
「はい。ありがとうございます。差し支えなければ、お手洗いの場所が知りたいのですが」
「このドアを出て左の方にあるよ」
シルワは壁の扉を指差して言った。佐藤はまた礼を言ってから、トイレへと向かった。彼がトイレの中で何をしたかは言うまでもあるまい。
「そう言えば、さっき魔法の話をしたじゃない?」
シルワが言った。
「しましたね。それがどうかしたんですか?」
佐藤はやや目線を下げながら言った。それはシルワが着替えていたせいで、胸元が大きく開いていたからだった。
目線に困る――と、佐藤は思った。
「"祝福"って言って、サトウ君は何か思い当たる節がある?」シルワが訊いた。
「無いですね」佐藤は首を振って答えた。「言葉本来の意味は理解できますが、単純にそういう話ってことでは無いですよね?」
「うん。祝福っていうのはね、この世界の神様が私達一人一人に与える特別な能力のことなんだ」
「神様?」
シルワのその単語を、佐藤は繰り返さずにはいられなかった。
「神様」シルワは意に介さず、言葉を続ける。「私は見たことは無いんだけど、この世界の人間なら、殆どの人がその祝福を受けて何かしらの能力を持っているんだって」
「ということは」佐藤が言った。「シルワさんも、そういう力を持っているということですか?」
「うん。私はね――」
シルワはがそう言った時、佐藤の背中を叩く感触があった。佐藤が振り返ると、木の根っこに似た触手が佐藤の肩を叩いていた。
「うわっ!?」佐藤は驚いた声を出した。
「私はね、こんな風に木の蔓を出すことが出来るんだ。物を持たせたりして、結構便利なんだよ?」
その証拠と言わんばかりに、もう一本触手が出てきて、本棚にあった本を一冊抜き取って佐藤の前に置いて見せた。
「……まあ、そうは言っても日頃から使っている訳じゃないんだけどね。感覚的には、手とか足とかと変わらないんだけど、意識して使おうとしないと使えないんだ」
と、シルワは言った。
「へえぇ……。凄いですね」
驚きながらも、佐藤は触手に触れた。すると――
「ん……っ!」
シルワが喘ぎ声を出した。佐藤は一瞬で手を離した。
「ごごご、ごめんなさい!」
「ううん。その、ちょっとくすぐったくて」
と言って、シルワは申し訳なさそうな顔をした。
「もう二度としません」佐藤が顔をこわばらせて言った。
「そこまでは言ってないよ……?」
シルワはそう言っていたが、佐藤は心の中で固く誓った。もう二度と、自分からは触りに行かないと。
「それで、さっきサトウ君がサトウ君をこの世界に連れてきた神様の話をしてたじゃない? 一つ能力を与えるって。ちょっと祝福と似ているなって、私思ったんだ」
「ああ、それで」佐藤は頷いた。「うーん。なんでしょうね、能力。いっそのこと、元の世界に帰る能力とか欲しいんですけどね」
「サトウ君は、元の世界に帰りたいの?」
そういえば、自分の状況を説明するだけで、自分の意見を説明していなかったな――俺のいつもの悪い癖だ。と、佐藤は思った。
「そうですね。元の世界に帰るつもりです」
「それは、どうして?」
シルワが訊いた。佐藤はやや返答に戸惑った。
「どうしてと言われるとちょっと答えるのが難しいですけど……。でも、帰らないといけないとは思います。別に待ってくれる人がいるって訳じゃ無いんですけどね」
結局そう言って、自虐的に笑った。
「そうなんだ……」
シルワは呟いて、暫く何かを考えるような、そんな素振りを見せた。佐藤はそれを黙って見ていた。
「決めた」シルワが口を開く。そして佐藤の目をじっと見つめた。威圧をしているわけでも無いのに、思わず後ずさりをしてしまうような、そんな力強さを秘めた目だった。
「サトウ君が元の世界に帰るまで、私サトウ君に協力する」
佐藤は目を丸くした。
「ほ、本気ですか?」彼は反射的に言葉を発していた。「どうやって帰るのか見当もついていないんですよ? 何年かかるかも、もしかしたら帰れないかもしれないんですよ?」
「でもいい」シルワの力強い目は、全く変わらなかった。
「どうしてですか?」
「助けたいと思ったから。目の前に困ってる人がいて、その人に出来る事が少しでもあるなら、やらなくちゃ」
彼女にそう言われて、佐藤は少し黙った。それは言いたいことがあったからだ。その言いたいことを、言うべきかどうか悩んだ。
「助けて欲しい。とは言われてなくてもですか?」
結局、佐藤は言うことにした。シルワのことを否定したいわけでも、言い負かしたいわけでも無かった。それでもあえて言うなら、自分を否定するためだった。
「そんなこと、考えたことも無かった」シルワは素直に感想を漏らした。「……でも、何かしてあげるべきだと思う。目の前でもし獣に襲われそうな人がいたら、私の体は勝手に動くと思う。だから、きっと今もそんな感じで、そういうことは何も考えていないと思う。サトウ君だって、きっとそうなんじゃないかな」
「俺は……」彼は自信が無さそうに言った。「分からないです。そうなったことが無いから……」
佐藤はその言葉を、何かに怯えながら言った。
「……じゃあ訊くね」シルワはそう言って、真っすぐに佐藤を見つめる。「サトウ君は、助けて欲しい?」
佐藤は指先を何度もこすり合わせながら、暫く考えた。そして、
「……助けて欲しい。助けてください。お願いします」
と言った。少しだけ、みじめな気分になっていた。
「分かった」
そんな彼の事は意に介さず、シルワは力強く頷いた。
それから、佐藤とシルワは今後の方針について、一通り話し合った。話し合いと言っても、彼が彼女にこの世界の事を聞いて、彼女がそれに答え、その答えを元に彼が考えるというサイクルの元で進んでいたため、会話の流れはほとんど一方通行だった。その上、シルワの口からあまり有益な情報が出ることも無かった。最終的には、
「人のいるところに行くしかないですね」
という、ありきたりな結論に落ち着いた。
「……ごめんね。よく考えたら、私もサトウ君と同じくらいこの世界の事知らないや」
「それはまあ、事情が事情ですし。逆にシルワさんの方から聞きたいことはありますか?」
佐藤にそう訊かれ、シルワは暫く顔を捻って考えた。そして、
「あっ、そうだ」シルワは思い出したように言った。「サトウ君の世界について教えてよ。さっき、火を起こす魔法みたいな空気があるって言ってたよね? 他に何かそういう面白いものは無いの?」
「あー。じゃあスマホかな……。えっと、通信の概念を説明するのはあれだから……。離れた人と自由に話すことが出来る……機械じゃだめだから……意外と難しいな。――板! アルミニウム製の……いや違うな。鉄製の板って言って伝わります?」
「離れた人と自由にお話出来る道具があるの?」
「あっはい。そういうことです」
「どのくらい離れてても大丈夫なの? この森の距離ぐらい?」
「一部例外はあるんですけど、基本的に距離に限界はありません。世界中どこにいる人でも話すことが出来ます」
「嘘!? 魔法だとそんな話は聞いたこと無いなぁ」
シルワは悔しそうに言った。佐藤はおかしくなって笑ってしまっていた。
「じゃあ次は、この腕輪の話でもします?」
と言って、彼は自身の腕時計を外した。
「えっ! それただの腕輪じゃないの!?」
その後、佐藤はシルワに、自分の世界について、あれやこれやと教えていた。彼の説明は彼女に対して適切なものとはとても言えなかったが、それでも彼女は楽しそうに、そして大袈裟にリアクションをしていた。そのテンションに引っ張られるように、彼も楽しくなっていた。
ひとしきり話し終わった後、夜も更け、佐藤は風呂に入っていた。そこそこの広さの風呂には、木製のシャワーヘッドと蛇口が壁に取り付けてあった。蛇口の下には浴槽が取り付けてあり、どちらも対応するレバーを引けばお湯が出てくる優れものだった。それを見た佐藤は、
「どういう仕組みでお湯が出てるんだこれ……」
と、呟いた。シャワーヘッドや蛇口を触ったり、穴をのぞき込んだりして調べてみたが、何も分からなかった。その後、小窓を開けて、建物の周囲に何かしらの設備が備え付けられていないか探してみることにした。給水塔に似たものが屋根に取り付けられているのは辛うじて分かったが、結局お湯が出てくる根本的な理由はわからず仕舞いだった。佐藤は諦めて、湯船の中に肩を落とした。
開けていた窓の外から、沢山の星が見えた。それは、星を遮る枝や葉の形が分かるほどであった。
「やっぱ東京とは、全然違うな。ほんと」
東京……か。と、佐藤は心の中で呟いた。そして、自分が居なくなった後の世界について、少し考えた。
「俺って、俺が死んだ後の世界でどうなるんだろうな。葬式とか墓とか、そういうのってどうなるんだろ」
それだけ呟いて、その先を考えないようにした。それより先に、自分の体が底の見えない闇の中に落ちていくような、そんな恐怖心があった。それが佐藤の思考を止めた。佐藤はお湯を掬って、顔に勢い良く掛けた。
「上がるか」
呟きながら立ち上がって、佐藤は脱衣所に向かう。と言っても、脱衣所と風呂場はカーテンで仕切ってあるだけの簡素な造りだ。冬は多分地獄を見るだろうなと、佐藤はそんな事を思った。
脱衣所には、棚の中にタオルがいくつか置いてあった。それを使って体を拭く。やけに拭き心地の良いタオルだった。体を拭いた後は、若干の抵抗感はありつつも、シルワが用意してくれた服を着る。少し窮屈には感じたが、身長が大体似たようなものなので、思ったより違和感は無かった。下着は流石に無いので、いわゆるノーパンだ……と、そう思っていた所。
「……あれ?」
佐藤は床に落ちてる、小さな布を見つけた。恐らくは服の隙間に挟まって、それが床に落ちてしまったのだろう。佐藤はそれを拾い上げた。
純白の女物の下着だった。パンティーである。
「どぅえ!?」
佐藤はその布切れを放り投げた。虫の死体でも見るかのようにその白地の布を見ていた。
「……どういうつもりだ」
「そりゃ履いてもらうためだけど……」
と、背後からシルワの声がした。
「うぇ!? ……何でこんなもの――おおおお!?!?」
佐藤が二度驚いた。それは、彼女が全裸だったからだ。佐藤は慌ててカーテンの後ろに隠れようと、一気に飛び退いた。
「あっ」
そして、濡れた床に足を滑らせ後頭部を打って、彼は気絶した。




