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転生者佐藤の願いごと  作者: 星野雪
第一章 実によくある異世界転生
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第1話 どこかで聞いたような死因

 佐藤龍一は、横断歩道で信号が青に変わるのを待っていた。


 彼の背後から、小学生くらいの少年が飛び出して、横断歩道を渡り始めた。彼はその少年の動きを目で追った。横断歩道は十字路にあるのだが、交通量は極めて少なく、信号機の必要性さえ感じられないほどだった。少年が特別というわけではない。彼が知る限り、この交差点では殆どの人間が信号無視をしているのだ。


 少年が横断歩道を渡り切るのを見届けてから、彼はため息をついた。


 その後、佐藤は駅近くの大型の書店を訪れた。大学の熱力学の授業で使う教科書を購入するためである。入り口には新刊コーナーがあった。ポケットの中の財布に軽く触れて、彼は目線を上げる。一冊かな。と、心の中で呟いた。


 新刊コーナーには、最近話題になっているミステリー小説が置いてあった。以前から読んでみたいと思っていた一冊だった。その本を取ろうとしたときに、服が引っ掛かったのか、下にあった本が床に落ちてしまった。彼は落ちた本を手に取った。それはライトノベルで、タイトルに『異世界転生』という単語を含んでいた。それを見て、彼は苦笑した。別にその手の作品が嫌いというわけではない。知人に勧められて、何度か読んだこともあった。面白いと思った作品も、いくらか存在する。何らかの本を読んで、その登場人物にもし自分がなれたら……といったよくある想像は、彼もしたことがある。しかし、異世界転生はその対象ではないのが、彼の本音だった。


 ――俺には簡単に今を捨てられないな。


 佐藤は近くにあったカゴを取って本をその中に入れた。落としてしまった本を、他の誰かに渡すのは忍びないからだった。そしてその場を後にして、目的の本棚に向かい参考書を探した。参考書はすぐに見つかった。手に取った後にページを少し捲って内容を確かめ、カゴの中に本を入れレジへと向かった。


 会計後に本屋を出た彼は、デジタル式の腕時計で時間を確認した。時間は既に19時を回っていて、街は殆ど闇に沈んでいた。星の一つも見えない、都会の淀んだ夜空を彼は見上げた。


 確かに、この空は酷い夜空だ。しかし、その地平の奥に微かに夕焼けが残っていた。そこから、赤、白、青、黒――と、その色と濃淡の変化はとても美しいものだった。


「へえ、この街でもこんないい景色が見れるんだ」


 感心したように呟いて、佐藤はその景色を眺めていた。魅せられていた、と言っても良いかもしれない。


 突然、轟音が佐藤の耳に届いた。その音は一瞬で消えた。音が消えた後は、電子音のような高音がこれまた一瞬だけ鳴った。それと同時に、佐藤の視界が激しく揺れた。揺れた後は、無だった。彼の五感には何も残らなかった。彼は自分の状態を自覚する暇なく死んだからだ。



 *   *   *



 佐藤の意識が覚醒した時、彼は真っ白な空間に一人で立っていた。角や輪郭を感じることは出来ない、宇宙のような空間だった。そして彼はそこに《《立っていた》》。しかし重力を感じるわけでも、逆に感じないわけでも無かった。それなのに、彼はちゃんと直立しているという感覚があった。ゲームの世界のように、彼はそこに固定されて存在していた。


「……なんだ、これ」


 訳も分からず、佐藤は呟いた。しかし混乱まではしていなかった。「なんだ、これ」と思ったから、彼はそう言ったのである。


「目覚めたか」


 すると、どこからともなく声が聞こえた。スピーカーで流したかのような声だった。やや中性的で、声の特徴から人物像を想像しにくかった。


「あなたがここに俺を連れてきた犯人ですか?」


 佐藤は訊いた。彼は冷静だった。最後に見た景色によって、自分が死んでしまったということは何となく想像が付く。しかし、ここは死後の世界ではない、という謎の確信が彼の中であった。


「そう解釈して構わない」声の主はそう答えた。

「……詳しく説明してもらっていいですか」


 返答は期待していなかった。半ば義務的に言っていた。


「手違いで君を殺した。埋め合わせに異世界へ送った。能力は一つ、役に立つだろう」


 返ってきた答えは、酷く簡素で事務的な口調。そして何より非現実的で非科学的だった。

 常識的に考えるのならば、この神と名乗る人物の返答の内容はあり得ないものだ。しかし、佐藤はなぜかこの神と名乗る人物の発言の全てが、嘘であるとは思えなかった。彼は顎に手をやって、暫く考えを巡らせていた。やがて、顎に当てていた手を挙げた。


「質問いいですか?」

「なんだ」

「さっきから混乱せずあなたの話を聞いている俺がいるんですが、これはあなたのせいですか?」

「ああ。こちらの話を聞いてもらえないのでは論外だ。ある方法で、君の精神を安定させている」


 佐藤は、先ほどからここがどこか夢のように思っていたが、その原因が(少なくとも声の主の発言を信じるなら)はっきりした。精神を操作していると宣言されても、恐怖や怒りの感情は湧かなかった。


「能力とは?」佐藤は更に尋ねた。

「言えん。役に立つとは思うが」声の主は答えた。

「俺は、車に轢かれて死んだのですか?」


 言い淀みながら、彼は訊いた。


「ああ」声の主は、即答した。「トラックと壁に潰されて死んだ。覚えていたのか」

「詳しくは覚えてません。ただの予想です」


 佐藤はほんの一瞬だけ、この声の主に対して怒りの感情が湧いた。しかし、しゃぼん玉のように、その感情も消えてしまった。


「あなたが神様なら、事故を無かったことに出来ないんですか?」

「無理だ。理由は言えんが」

「元の世界に帰るにはどうすれば? というか、そもそも帰れるんですか?」

「知らん。不可能だとは思わんが」


 佐藤は次第に、この会話を続けることが馬鹿らしく感じ始めた。そもそも、本当に自分をこんな目に遭わせたのがこの人物なら、わざわざべらべらと情報を喋るわけが無いのだ。


「……そうですか。大体理解しました。後はあっちで考えたいと思います」

「意外な反応だ。大抵喜ぶのが多い」


 彼はその言葉に違和感を覚える。


「その言い方だと、俺と同じように死んだ人がいると捉えることも出来ますけど?」

「それで正しい。両手の指では足りない数ほどいる」

「こんなことをされて、喜ぶ人なんているんですか?」

「割と」

「……そうですか。もういいです」

「そうか。では頑張るといい」


 何が頑張るといいだ、と心の中で佐藤は毒づく。

 暫くして、彼の周りを無数の光の球が包んだ。それは妙に暖かい光で、それがまた彼の心をざわつかせる。彼は死ぬよりは幾分かましと、強引に自分を納得させた――元より彼に死ぬ予定は無かったわけであるが。


 光が完全に佐藤の体を覆ったあたりで、彼の意識は再び沈んだ。



 光が目を突く。思わず、彼は手を伸ばしてその光を遮った。手首には黒いベルトが巻かれていた。いつも巻いている腕時計だ。彼は癖のように、時計の液晶部分を眺めた。視界が少し霞んでいたので、読み取るのに時間は掛かった。液晶には死ぬ直前の日時が表示されていて、電波が届いている時に表示されるマークが、今は付いていなかった。体は動いている。しかし意識が底に沈んだまま、なかなか起き上がってこない感覚があった。その証拠に、遅れて熱と風を感じた。


 ――外にいるのか、俺は。

 と、佐藤がぼんやりと思った時だった。


「……ねえ、ねえ」


 佐藤の耳にそんな声が届いた。女の声だった。ここでようやく、自分の頭の位置が高くなっていることに彼は気が付いた。どうやら介抱されていたようだ。光に照らされぼやけていた視界が、徐々に輪郭を取り戻した。


「悪いんだけど、私の胸から手を放してくれない?」


 佐藤が光を遮るために伸ばした手。その手が介抱をしている女の豊満な胸に伸びて持ち上げていた。


「うわあああ!?」


 佐藤は叫んで、女の元から飛びのいた。そして素早く土下座の姿勢に移行し、地面に激しく頭を打ち付けた。大きく、鈍い音が鳴った。


「いや、別にそんなに気にしてないんだけど……あと、回復魔法を一応かけておいたけど、まだ暴れない方が……」


 女がそう言ったが、佐藤は反応しなかった。

 彼は頭を打った衝撃で気絶していた。



「すみませんでしたぁ!?」


 次に目が覚めた時、佐藤はそう叫びながら起き上がっていた。そして慌てて周囲を見回す。ベッドが壁際にそれぞれ二つと、その間に机があるだけの、殺風景な木造の部屋の中だった。そしてその中の一つの上に、彼は寝ていた。


「あ、おはよう。頭は大丈夫?」


 と、彼の背後から声が聞こえた。聞き覚えがあった。反射的に首を振ると、女が立っていた。先程佐藤を介抱した女だった。


「大丈夫……です」


 佐藤は言葉を詰まらせていた。女の容姿があまりにも優れていたからだ。長い金髪で、西洋人を思わせるようなくっきりとした目をしていた。鼻や口と言ったパーツも一切の無駄がなく整っている。身長も高く、体の凹凸もはっきりとしていた。肌はやや日に焼けていたが、鎖骨からわずかに見える白い境界線が、元の肌の白さを強調していた。


「良かった」女は、胸をなでおろすように言った。「えっと、それで君はどうしてあんなところで寝ていたの?」

「あー……その、正直何から説明した方がいいか分からない状態なんですが……」


 そう言いながら、佐藤は部屋の窓(ガラスが付いていない、ただの開口部である)を横目で見ていた。窓の外には枝葉が所狭しと映っていた。そしてそれは、気絶する直前に見た最後の景色にも映っていたことを、彼は覚えていた。


「とりあえず、助けていただいてありがとうございました」


 と言って、佐藤は頭を下げた。


「ああ、うん。どういたしまして」女はやや驚いたように、はにかんだ。「えっと、じゃあ自己紹介でもしよっか?」

「あ、えっと、そうですね」ややぎこちなく、佐藤は女に向き直した。「俺は、佐藤龍一と言います。改めて、助けていただいてありがとうございました」

「サトウリュウイチ? 長い名前だね」

「あー……。えっと、佐藤が性で、龍一が名前です」

「セイ? メイ?」


 と言って、女は首を傾げた。どうやら性や名の区別があるような世界では無かったらしい。


「佐藤でお願いします」佐藤は諦めたように言った。

「分かった。サトウ君だね」女は頷いた。「私はシルワ。この森で一人で暮らしているの」

「一人で?」佐藤は少し驚いた声を出した。「女性が一人で自給自足って、大変じゃないですか?」

「最初はね。今はもう慣れちゃった」

「ははぁ」


 佐藤は驚きを素直に漏らした。そして窓の外にまた目を向けた。窓の外の枝葉は、手を伸ばせそうな程近くにあった。つまりそれは、この部屋がそれだけ高い位置にあるということだ。


「この部屋、随分高い位置にあると思うんですけど、シルワさんがお一人で建てたんですか?」


 佐藤が訊くと、シルワは困った様子で首を振った。


「ううん。ここ、ツリーハウスになってるんだけど、私のお母さんが作ったの。機能別に一部屋だけの小屋がいくつもあって、それを連絡通路で繋げているかんじ。後で私が付け足したものがあるんだけど、この家の便利なものは、全部お母さんが作ったんだ」

「そう、なんですね」ばつが悪そうに佐藤は言った。「何というか、その、すみませんでした」


 その謝罪が何を意味するか分かっていた。分かっていたからこそ、佐藤は謝罪すべきだと思っていた。


「ううん。気にしないで。ずっと昔に突然いなくなっちゃったんだけど、昔過ぎて私もよく覚えていないの。――それよりもさ、サトウ君はどうしてあんなところにいたの?」

「その、話せば長くなるんですが――」


 そう切り出して、佐藤は自分に起こった出来事をなるべく事細かに説明した。途中から、自分でも何を言っているか分からなかった。まだ夢の中にいるような、そんな気分だった。それに見ず知らずの他人シルワのことを、まるで兄弟のように信用しているのも、普段ではありえないことだった。助けてもらったことと、だからといって信用できるかどうかは別の問題だろう。後になって、それは恐らく彼女の魔性のようなものだろうと、彼は思うのだった。


「そんなことが……」


 佐藤が話し終わると、シルワは大袈裟とも言える程の表情でそう呟いた。どうやら彼の話を完全に信じたらしい。


「自分で言うのもアレなんですが、信じるんですか? 俺の話」

「嘘ついてたってこと!?」シルワは驚きながら言った。

「あ、いや。嘘はついてないですけど、何というか、非現実的じゃないですか?」

「うん? よくわからないけど、信じられないような話じゃないよ。私は会ったの初めてだけど、そういう風に別の世界で死んで、この世界に来る人って、結構いるんだって。その人たちは、転生者って呼ばれてる」

「そうなんですね……」


 地球で神に殺された人間は、恐らくこの世界にやってくることが分かった。転生したら森の中でサバイバル。現代人にはあまりにも辛すぎる試練であろう。――自分だけが特別なのか? と、佐藤は思考を巡らせる。


「とにかく――」佐藤が考え込んでいると、シルワが近づいてきた「大変だったね。よしよし」


 と言って、シルワは佐藤の頭を撫で始めた。彼は驚いたように頭を仰け反らせた。


「あ、ごめん。嫌だった?」彼女は申し訳なさそうに俯いた。

「あっ、いえ、そういうわけではなく」佐藤はしまったと言わんばかりに目線を泳がせた。「すみません。こういうの、慣れてなくて」

「じゃあ、やらないほうがいい?」

「あ、その」佐藤はおもちゃを見つめるような子どもの目をしていた。「そうですね、申し訳無いんですけど、それでお願いします」

「うん。分かった」シルワは手を引っ込めた。「そうだ。サトウ君お腹すいていたりしない? さっき作ったスープがあるんだけど、飲む?」

「あ、じゃあ、頂きます。何から何まですみません」


 待ってて。と言って、シルワは部屋の奥に消えた。暫くして、シルワは手に木の皿を持ってやって来た。皿からは湯気が立ち上っていた。


「どうぞ」


 シルワは皿を机の上に置いた。そして壁際にあった椅子を二脚持ってきて、隣り合わせに置いた。


「……隣ですか?」

「ダメだった?」

「いや、全然」


 佐藤とシルワは隣り合わせで座った。


「それじゃ、いただきます」


 佐藤は木製のスプーンを手に取って、スープを掬って口へ運んだ。

 この世のものとは思えないほど不味かった。

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