9・キスと熱
「クリスマスなのにいいのかよ?」
「なにが?」
すでに空は夜そのものの色に染まった夕方六時。湊が最寄りのスーパーの袋にいっぱいの菓子を携えてやってきた。湊は、呆れ顔の俺にその袋を押し付けると、さっさとソファにふんぞり返っている。
「崎山」
クリスマスの日は彼女と過ごすのが当たり前だろうと言外に含めれば、そんなものだれが決めたんだと湊が嘯いた。
「別れた」
「は? いつ?」
「先週? 先々週?」
呆気にとられて言葉の出ない俺をよそに、湊はテレビのリモコンを探している。
「ミナ、おまえ二ヶ月くらいしか経ってないぞ」
ダイニングテーブルのリモコンを渡しながら、ついつい非難めいた口調になってしまう。テレビをつけた湊が再放送らしいお笑い番組にチャンネルを合わせると、振り向きもせずにつぶやいた。
「だって、熱いから」
「熱い?」
「……くっついてたら」
女子と二人でくっつく。それはもう湊にとっては当たり前の行為で、もちろんただ寄り添って座っているだけじゃないことくらい想像に難くない。
「熱くなるまえに終わらせたいのに、文句言われるし……」
経験のない俺は、もちろん何も答えられるわけがなかった。だから、誤魔化すように湊の手首を握った。その白さに、今年の湊は日焼けとは無縁だったと気づく。
「熱い?」
外から来たばかりだからか、湊の手首は氷のように冷たかった。
「ミナの手、冷たいな。コタツ入れる?」
ソファの前に置かれたコタツのスイッチへと手を伸ばした俺を、今度は逆に湊の手が引き止めた。
「いらねぇ」
「そんなに冷えてるのに?」
「ああ。手も足もすげぇ冷たい……だから、こうやってくっつくとあったかいだろ? なのに、すぐに熱くて我慢できなくなるんだ」
そうぼやいた湊が、不意に俺の腰へとしがみついた。ソファに座ったままの湊が、木偶の坊みたいに立ち尽くす俺に抱きついている。腹のあたりで、長く伸びた湊の茶色い髪が柔らかく潰れていた。
「いいよなぁ、タツは背高くて」
腰の位置で湊がぼやく。高校に入ってもぐんぐん伸びた俺の身長は、ついに一八五センチを超えた。
「一〇センチ分けろよ」
一七〇センチを超えたところで成長の止まった湊が無理難題を押し付ける。一〇センチを分けてしまえば、俺たちの高さが逆転する。そうすれば俺が湊に勝つ要素はほとんどなくなってしまうのだ。
「贅沢いうなよ、ミナ」
女の子に好かれる整った顔立ちと、高いコミュニケーション能力、部活をしなくても持続している運動能力。それ以上を求めるなんて、どれだけ欲深いのか。俺には、ただ備わっていた体格だけしか取り柄がないというのに。
「そろそろ離れろよ」
「もうちょっとだけ。服越しだと温さがちょうどいいんだよなぁ」
服越しじゃない温度を想像して、途端に身体が火照った。湊は裸のままで重なった女の子の体温と俺を比べているのだ。
湊の体温は低い。それなのになぜか熱くなる。これが地肌同士だともっと熱いのかと、どこかそぞろになった心を鎮めるために、俺は無意識に湊の髪を撫でていた。
「二人とも、何してるんですか?」
悠一郎が来るからと、玄関の鍵は開け放していた。それなのに、玄関の音も、リビングのドアを開ける音も耳に入ってこなかった。呆れたような悠一郎の声に湊と二人、滑稽なくらい慌てふためいた。
「ユッチ、早かったな」
「いつもどおりですけど」
「あれさ、ミナのやつ彼女に振られたんだってさ」
「そうなんだよ。クリスマスなのに嫌になるって」
だから、慰めてやっていたのだと冗談めかした言い訳を、悠一郎は白い目で受け止めた。
悠一郎が持参したケーキを冷蔵庫に入れるのを合図に、俺たちは持ち場についた。とは言っても、小学生のころのように部屋を飾り付けることもない。納戸から埃をかぶったツリーの箱を引っ張りだしてきた湊が、くたびれた飾りを雑に取り付けていき、悠一郎がテーブルに食器を並べていく。
俺はキッチンに立つと、あらかじめ準備していた惣菜を温めていた。
手のひらに、湊の冷たい体温が残っているような気がする。自分はまだ、肌の触れ合う温度を知らない。見つめ合い、唇を重ねあったこともない。手のひら以外の部位が、意味もなく他人に触れたことさえ今が初めてだった。幼いころ、母と繋いだ手が、抱き締められた胸のなかがどうだったのかも思い出せない。
不意に触れた幼馴染の温度が、やたらと落ち着きを奪っていく。
「ユッチは彼女とか……」
盛りつけの終わった皿を取りにきた悠一郎に、こっそりと尋ねた。悠一郎は少し驚いた顔で俺を見つめ、すぐに顔をしかめた。
「そんな暇、ないですよ」
「だよなぁ」
「タツはどうなんです?」
「いるわけないだろ」
憮然と答えると、悠一郎が小さく笑った。ツリーの形に盛りつけたポテトサラダの皿をテーブルに置き、すぐにまた戻ってくる。
「タツは好きな子とかいるんですか?」
悠一郎から恋愛話が持ちかけられたことが意外だった。夢に向かって努力を惜しまない悠一郎には、興味もないだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
「いない……でも」
悠一郎がチキンとは名ばかりの、唐揚げを盛り積んだ皿を手にした。
「そういうことに興味はあるよ」
キスをして肌を合わせること。けれど、そこに到達するにはどうすればいいかよく分からない。
「僕も、興味がないとは言えないです」
恥ずかしそうな早口の同意に、なんとなく救われたような気がした。
「なに? なんの話?」
飾り付けを終えた湊がキッチンに合流し、悠一郎の皿から唐揚げをつまみ食いする。
「なぁ、ミナ。付き合うってどんな感じ?」
口いっぱいに唐揚げを頬張った湊が、考えるように小首を傾げた。月並みな想像をするなら、それは甘くて熱くて心臓が落ち着きをなくすような、浮き足立ったものだ。
「合コンでもするか?」
説明のしようがないからと、湊が現実的に案を出した。知りたいなら、試してみればいいじゃないか。そんな声が聞こえてきそうだ。
俺は返事をためらった。とても甘美な誘惑ではある。けれど、二つ返事で応えるにはなぜか迷いがあった。
「僕は遠慮します」
淡々と悠一郎が断わりを口にする。興味はあるが、それよりも大事なことがある。悠一郎の信念が見えたような気がした。
俺は――。
「俺もやめとく」
もしかしたら可愛らしい女の子とお近づきになれるかも知れない。そんな淡い希望がなかったわけじゃない。それでも、現実的にはコミュニケーションが試される場で、うまく立ちまわる自信なんて微塵もなかった。
「なんだそれ」
湊が不満げに?を膨らませた。
キッチンの皿を手分けして運び終え、揃ってテーブルについた。メリークリスマス。湊の掛け声を合図に、ノンアルコールカクテルで乾杯をした。
「……「付き合って」って言われたら「オッケー」って返せば付き合ってることになるんだ」
バケットを齧る湊がぼそぼそとしゃべる。
「並んで歩くときに手を繋げば喜ぶし、二人きりになったら軽くキスする」
悠一郎がポカンと口を開けて聞き入っていた。俺も、ピザを手にしたまま動けずにいる。難解な試験の解答を、すらすらと口述されているみたいだ。
「してもいいかどうか、どうやったら分かるんだよ?」
「しなきゃ文句言われるぜ? 付き合う時点でそういうのも込みで期待されてんだからさ」
くらくらと、眩暈が俺にまとわりつく。湊にとっての当たり前は、英文の翻訳よりも難しい。一体なにを言っているのかと、思わず悠一郎を伺った。
「じゃあ、触っていいのは……?」
おずおずと問いかけたのは、具体的な行為の名称を口にすることができなかったからだ。
「胸とか?」
「ほかにも……」
女の子の身体に触れてもいい許可はどこで出されるのだろう。
「相手からキスされるようになったら、服脱がせても怒らねぇよ」
悠一郎がなんとも言えない顔で、視線を泳がせた。あけすけな内容に羞恥を覚えたのだ。それでも、視線を合わさないままで口を開いた。
「……手順書、みたいですね……」
違和感の正体がその一言に凝縮されていたように感じた。ケチャップをつけたフライドポテトを手にした湊は、一瞬だけ表情を曇らせた。
「付き合うってことは、ミナもその子が好きだからじゃないんですか?」
「あー……どうだろ……見た目がそこそこ好みだったらそれでいいし……」
「それで、その、いわゆる……淫らな行為をするというのは……」
悠一郎が迷った末に選んだ言葉は、ニュースでよく耳にするフレーズで、高校生男子が口にすると違和感がありすぎる。思わず湊と二人、その単語を繰り返してしまった。悠一郎の頬に朱が走る。
「別にそんなに好きじゃなくったってセックスは気持ちいいぜ? 向こうだってそれで満足する」
女の子は湊のことが好きで、もちろん湊からも好かれていると思っているはずで、だからこそ行為に及ぶことを許している。だけど、湊が持つ好意の温度はそこまで高くない。
なにか違うんじゃないかと思いながらも、反論すれば青臭い未経験をさらけ出すようで、口にできなかった。
「そんなのだからすぐに振られるんじゃないですか?」
悠一郎の声には少しの棘が含まれているように聞こえた。
「多分な」
悪びれない湊が最後の唐揚げを咀嚼する。
「なんかさ……体温を確かめたくなるんだよ。触って、熱くなって、それでイケたら……なんか……ホッとするんだよな」
ここにきて急に歯切れの悪くなった湊は、ただの言い訳をしているようにしか見えなかった。それは悠一郎も同じだったようで、誠実さが足りないと年寄りめいた苦言を呈している。
悠一郎はきっと正しくて、もし悠一郎がセックスをするときは誠実に相手と向き合うのだろう。けれど、俺はそんな誠実さも間抜けな強がりに思えてしまった。
「けどさ、やっぱり経験してみたいよな……」
好きとか嫌いとかそんな感情よりも、くすぶる欲望が熱を求めているのだ。
アルバイト先のあの子と手をつないだあと、キスをしていたなら、さらに先があったのかも知れない。
いつの間にかテーブルのうえには、祭りの残骸だけが残り、行き場のないもどかしさをさらに強く突きつけてくる。
好意の先に行為があるのか、行為への欲求が好意に変わるのか、俺にはわからなかった。
湊の欲求は留まることを知らず加速していった。湊の隣にはいつも違う女子がいる。手を繋いで、笑い合い、仲良くどこかに消えていく。そして、誰とも約束をしない日は、俺の部屋で過ごすことが多くなった。
低空飛行の成績を教師に叱咤されつつ、なんとか進級の切符を手にした湊は、やれやれとばかりに春休みを満喫している。
「タツ。構えよ」
ベッドを占領してマンガを読んでいた湊が、ベッドにもたれた俺の背にしがみついた。そういう、何気ないスキンシップがやたらと増えた気がする。
春とはいえまだ肌寒い。なのに湊は部屋の暖房をすぐに止めてしまう。そのうえで、寒いと冷えきった手を俺の肌に添えるのだ。今も、湊の手が耳の後ろあたりの首に触れている。
「触る相手が違うだろ?」
「んー……」
嫌味と一緒に引き剥がした手が、すぐにまた俺へと伸びる。ついには、不自然な姿勢で拘束されたものだから、俺は観念して湊の隣に寝転がった。俺は湊の抱きまくらになっている。こんなのはおかしい。
「暑っ……」
ぼやく湊が俺を突き放した。それも最近ではいつものことで、怒る気にもならず、俺は湊の隣で天井を睨んでいた。
しばらくしてまた冷たい空気が体温を下げると、湊の身体が寄り添う。そんなことを一緒にいる間繰り返すのだ。
「女の子とやれよ」
「やってる」
「だったら俺にするなよ」
「怒られるんだよ。くっついたり離れたりしてたらさ……」
寒いのに暑いんだ。意味不明な愚痴が心臓に染み込んだ。湊の顔は仰向けに寝転がった俺の胸に沈み込んでいる。
なにかを持て余したように湊が抱きつく。なんてことのない幼馴染の温度が、俺の歳相応に持て余した熱に火をつける。頭がくらくらと麻痺したみたいになにも考えられなくなる。
暑い。湊がまた横に転がり逃げた。横を向けば、少し汗ばんだ茶色い髪がシーツに散らばっている。
髪に触れる。伸び始めた根本は懐かしい黒色だ。
湊が顔を上げる。
こんなふうに間近で見つめ合うことなんかない。湊のくっきりと大きな目に映る自分の顔が見えるほどの距離。前髪の生え際には、二センチほどの傷跡がある。
「まだ消えないんだな」
「タツも、だろ?」
湊が俺の肩あたりをコツンと叩いた。
二歳か三歳か、その頃の子には珍しくもない玩具の取り合いは、俺たちにしては珍しかったのだと母たちが言っていた。
「俺がタツのを先に取ったんだってな」
「取り返して殴って、そしたら噛み付かれた」
ふたりとも覚えてもいないくせに、なんども聞かされた出来事は、まるで見聞きしたように鮮明なのだ。
「悪かったな」
「今さら?」
髪に触れたままの俺の手を、湊が捕まえた。
手を繋いで、それから――。
それは、ただの事故だったはずだ。
「タツ……」
小さくつぶやいた湊の唇が近づいて、そして、柔らかく重なった。そう、俺の唇に。
可愛らしくついばむ唇は、ひんやりとしている。湊が俺の上に伸し掛かった。濡れた舌が俺の唇を行ったり来たりと舐めている。その舌先が、唇の割れ目に止まると、硬くなって奥へと押し込まれた。
湊とキスをしている。全身が痺れて動けなかった。それなのに、促されるまま俺は唇を開放した。
息継ぎをするように、少しだけ離れた湊の吐息がかかる。
唇がまた重なった。今度はもっと深い。
熱い。舌先が絡まる――。
「――っ!」
その瞬間、湊が弾かれたように離れた。口を開けて小刻みに酸素を取り込んでいる。まるで冷たいと思って飲んだお茶が熱かった。そんな慌てようだ。
無言でベッドを下りた湊が、ガラステーブルのペットボトルを慎重に口に当てた。ゆっくりとうがいをするみたいに、喉が動いている。
「タツ、ごめん……」
気まずく謝る声は、どこか舌足らずだ。
俺はなぜだかわからないままに湊を追いかけた。
「ミナ、口開けろよ」
湊がそろそろと口を開ける。綺麗に並んだ歯列、その奥の舌は皮がめくれて爛れていた。なにが起きているのか理解が追いつかない。
「なん、で……」
湊が困ったように首を傾げた。
「熱いんだ。空気も体温も……」
やっぱり舌足らずな湊が、ぽつりぽつりと喋った。
「風呂も、お湯にしたら熱くて入れねぇ」
「病院は?」
湊が首を振る。
「異常なし。心因性の過敏症だって言われた」
心因性の過敏症。だったら、実際に皮膚がダメージを受けてしまうのはなぜだろう。熱く感じるだけじゃない。湊の舌は、うっかり揚げたてのフライを食べてしまったときの火傷と同じようになっている。
俺は息を飲んだ。
夏波が死んだのは二年前で、死因は原因不明の火傷だと言ってはなかったか。
「ミナ……」
「あのときさ、壊れた風呂が新しくなって、自動で追い焚きする機能がついたんだ」
湊はそれ以上なにも言わなかった。ただ、思い出したように、俺の手に触れた。その温度を確かめるように――。
悠一郎に、湊のことを相談するかどうかをしばらく迷った。病院にはひとりで行ったのだと言っていたし、両親にも相談していないのだという。きっと、キスの火傷がなければ俺にも言う気がなかったに違いない。
かといって、湊はこれまでと変わらず、日毎に違う女の子と並んで歩いている。
「ユッチ。あのさ……」
俺は結局、塾に行く前だという悠一郎を捕まえた。
「中二のときにカナちゃんが死んだだろ? あれって原因は今もわかんないのかな?」
「急にどうしたんですか?」
強引に奢った飲み物を持たせ、ファーストフード店のテラス席へと誘った。夕暮れの近いこの時間になると、風がやや肌寒さを伝える。
「低温火傷だって言ってましたっけ?」
悠一郎がホットの紅茶を包み込むように両手で持って口に運んだ。
「ミナがさ……」
そこまで口にしておいて、性懲りもなく迷った。果たして言ってもいいかどうか。
「ユッチ、俺どうしたら」
どうしたもこうしたも悠一郎にはわかるはずがない。それでも、なにか勘づいたのか、悠一郎が慎重に口を開いた。
「ミナになにかあったんですか?」
泣きたくなった。俺は一人じゃない。
「風呂が熱いって……だいぶ前からあいつの手足、すごい冷たいんだ。それなのに、触ってたらすぐ暑いからって離す……なぁ、これってさ」
夏波の症状と重なるんじゃないか。言葉にできない訴えを、悠一郎は正確に把握したのか表情を硬くした。
「検査しても異常ないんですよね?」
「そう言ってた。心因性だって」
「熱くないのに熱く感じてるってことですか?」
「けど、実際に火傷してたんだ」
それが自分とのキスによるものだとは言えなかった。
「けど、それじゃ……」
理屈が合わないじゃないか。悠一郎が独り言のようにつぶやいた。心因性で痛みを感じることはあるらしい。しかし、それは決して外傷にはならないのだ。実際に皮膚が傷んでいるなら心因性ではない。悠一郎は考え込むように口をつぐんだ。
「どこの病院に行ったか聞きましたか?」
「佐野市のちっさい病院だって」
湊も名前はすでに思い出せないのか、駅の裏路地にあったとだけ言っていた。人知れず調べに行ったのだ。
「もっとちゃんと調べたほうがいいんじゃないですか?」
「俺もそう思う。けど……」
もちろん湊にもそう訴えた。だけど、湊は笑って大丈夫だとだけ答えるのだ。そのくせ、隙あらば体温を確かめるために触れてくる。気にしているくせに、知りたがらない。湊の行動は矛盾している。
「怖いのかもしれませんね。昔も、歯医者が怖くて限界まで虫歯を我慢してたし」
「そうそう。真っ青な顔で呻くから、おばさんが救急車を呼んじゃったんだよな」
懐かしさについ緩んだ頬も、すぐさま固まってしまう。
夏波も原因がわからないまま突然死んでしまった。今、湊の身に起こっているのは、まさにその原因ではないのか。もっと詳しく検査をしたら。そうすれば、湊はどうなるのだろう。
気味の悪い虫が肌を這っているような、言いようのない不快感にぶるりと震えた。
「タツ、ちょっと携帯貸してもらえませんか?」
請われるままに端末を差し出した。ブラウザを立ち上げた悠一郎は、検索エンジンになにやら入力している。携帯電話としては旧式のものを使っている悠一郎も、自宅ではタブレット端末を使用しているから、その操作は淀みがない。何度も単語を変えて検索して、やがて難しい顔をしてため息をついた。
「やっぱりそんな症例は見つからないですよね」
肩を落としながら、そんな病気は見当たらないと悠一郎が言う。もちろんインターネット検索が全てではないだろうが、今の時代、大抵のことは欠片だけでも見つけられる。
「父さんにもちらっと聞いてみます」
内科医の父親ならなにか思いつくかも知れないから。そう提案した悠一郎を慌てて引き止めた。湊はきっと、知られることを良しとしていない。そう言った俺を、悠一郎は理解しがたいとばかりに見つめ返した。
「俺、もう一回ミナを説得してみる。だから、それから……」
悠一郎には自己判断で伝えたが、それ以上に広めてしまうことはさすがに憚られた。せめて許可を取ってから。そう弁解する俺に、悠一郎は不承不承といった体で同意した。
自分勝手だという自覚はある。一人で抱えられずに悠一郎を頼って、それなのに解決策を受け入れられない。ただ、悩みを共有する相手が欲しくて、ありもしない責任をひとりで負うことが怖くて、悠一郎を巻き込んだ。湊だって解決なんか望んでないのかもしれないのに。
「肝心のミナはどうしてるんですか?」
「いつもどおり、かな。今日は聖心の子と約束してるんだって言ってた」
隣町にある私立高校の名を出して肩を竦めた。いわゆるお嬢様学校で、最近の湊は付き合いの範囲がさらに広くなっている。
彼女なのかと聞き返した悠一郎に、少し悩んでから多分違うと答えた。悠一郎の眉間にわずかな皺が寄る。男女の関係に潔癖な悠一郎には、受け入れがたいのだろう。
湊はただ取っ替え引っ替えしているんじゃない。そう庇おうとして、うまく説明する言葉がないことに焦った。湊は自分が感じる人肌を試したいのだ。だけど、女の子は長くくっついていてくれない湊に耐えられなくなって別れを切り出す。だから、湊はまた違う子と付き合う。
そう組み立てたところで、湊が不誠実な男だという結論にしかたどり着けない。だけど、女の子が振らなければ、湊が、例えば浮気をするようなことにはならなくて。
じゃあ、湊はどうすればいいのだろう。
「タツごめん。塾の時間です」
腕時計を気にした悠一郎が立ちあがった。
「あ、こっちこそ悪い。また連絡する」
まだジュースが残っているからと悠一郎に手を振り、がらんとしたテラスで頬杖をついた。そういえばここは、いつか湊が柳瀬と楽しそうに座っていた場所だ。ここに座っていた湊は、通り掛かった俺と目が合って、そして反らした。なにげなく向けた視線の先に、見覚えのある制服が映った。自然とその人物を目で追えば、当然のように視線が合わさった。
「飯田君。一人?」
同じ紺色の制服は崎山だった。テラスの柵越しに声がかかる。
「さっきまで友だちといてたけど」
「ちょっといいかな?」
頷くより先に崎山は店内へと身体を向けた。既視感を覚えつつ、ガラス越しにその姿を追う。
「ねぇ、湊どうしてる?」
ジュースを買って席についた崎山が、流れるようにそう切り出した。向かい合うと、あの日の湊と柳瀬が重なる。だけど、道行く人は俺たちを見ても、恋人同士だとは思わないだろう。こういったシチュエーションに慣れているはずもなく、俺は早くも逃げ出したくなった。
「どうって?」
「だから、今付き合ってる子がいるのかってこと」
「なんでそんなこと聞くんだよ?」
黙り込んだ崎山がストローに口をつけた。リップか口紅か、縞模様のストローにほんのり桃色が付いた。湊はあの桃色にもキスをしたのだろう。
「去年のクリスマス前に崎山に振られたって聞いたけど?」
「……理由も聞いた?」
「まぁ……そりゃ仕方ないかなって理由だよな」
「あたし、嫌われてたのかな」
「嫌ってたら付き合ってないだろ」
「だって、甘えたら嫌がるから……」
女子の口から出た、甘えるという言葉が無性に生々しく聞こえた。
どう返そうか。慎重に頭の中を整理した。湊はただ熱かっただけだ。崎山の体温が、肌が。耐え切れずに離れるしかなかった。
「長いことくっつくの苦手なんだってさ」
辛うじてそれだけ庇った俺に、崎山は納得いかないのか唇を引き結んだ。
「振ったのに気になるのか?」
「だって嫌いになったわけじゃないもの」
「じゃあ、なんで振ったんだよ」
振らなければ、湊は変わることなく崎山と一緒にいたはずだ。
「飯田君は好きな子いる?」
急に目を吊り上げた崎山を呆気に見つめ、いないと首を振った。
「想像してよ? ほとんど遊んだこともなくて、いいなって思ってた子にダメもとで告白したらオッケーもらえて付き合うことになりました」
それは、まさに湊と崎山のことだ。
「キスして、エッチもして。それなのに、いちゃいちゃはさせてくれないって、それは遊ばれてるんじゃないかって思わない?」
あけすけな崎山の告白に俺はただ圧倒された。湊とセックスしたんだ。崎山の口からそれを聞いて、うろたえることしかできなかった。
「湊はやれるなら誰でもよかったんじゃないの?」
「……本人に聞けば……?」
「聞いたわ。違うって。でも、そんなの信じられないじゃない」
そんなの勝手だ。喉まででかかったその言葉を俺は飲み込んだ。
付き合ってくれと言ったのは崎山で、湊はそれに応えた。同意のうえでキスをして、セックスをして、それなのに遊びだと決めつけられて。
けど、俺は湊が崎山を心から好きでいたわけじゃないことも知っている。だからといって、不誠実に付き合っていたわけでもなくて、崎山の怒りは見当違いで――。
「じゃあさ。もし、いきなり付き合うんじゃなくて、友だちから仲良くなったんだったら、そんな風には思わなかった?」
崎山はそうとも違うとも答えなかった。
「後悔した……絶対オッケーされないだろうって思ってたから。いきなりはちょっと無理ってなったら、そうだよね? って笑って、友だちになってもらって、それから……って思ってたの。あたし、勝手だよね」
湊が受け入れたことで引くに引けなくなったのだ。
「俺はさ、付き合ったこととかないし、話聞いただけだから、崎山の言うこともミナの言うこともどっちもわかる気がするんだよ」
だからなんとも答えられない。躱すことは諦めて正直に白状した。ちょっと驚いたような崎山にまじまじと見つめられ、思わず目を反らしてしまう。こんなところで向かい合うのに、崎山のレベルは俺には全く釣り合わないのだ。
薄く化粧をした顔が、ふっと緩んだ。崎山が小さく笑っている。
「ごめん。あたし、飯田君に八つ当たりしたよね」
「そうなのか?」
問い返すと、崎山が今度は大きく吹き出した。八つ当たりだとは思わなかった。ただ、湊に未練があって、どうにかして自分を納得させたい一心に見えた。
「飯田君ってちょっと冷めた感じに見えるけど、結構いい奴だね」
それはどういう意味だろうと、返答に窮した。そんな俺に、崎山はいたずらっぽく笑いかける。
「ねぇ、もし今あたしが、付き合ってって言ったらどうする?」
さすがに呆気に取られて、反らした視線を崎山に戻した。返事を待つ崎山は、お世辞抜きにも美人だ。少し話した印象からも、もう嫌いだという感情は生まれない。
湊ならきっと付き合うだろう。
「……さすがに、それはない」
呆然と答えた俺を、崎山は満足げに見つめ返した。
「だよね」
「なんだそれ。俺が付き合うって言ったらどうするんだよ」
湊のときと同じように付き合うのかと、言外に非難を含めた。
「それならそれでいいじゃん」
あっけらかんと言い放った崎山に、今度こそ大きなため息をついた。
「ミナのこと、振らなきゃよかったのに」
ある意味で、これ以上ないくらいお似合いの二人だった。だけど、俺には到底理解できない。
「あたしは、あたしだけを見てくれなきゃ嫌なの」
別れようって言ったら引き止めて欲しい。それが女心なんだと嘯かれ、完全にくじかれてしまった。
俺はきっと湊のようには振る舞えない。付き合ったのなら、その子に夢中になるだろうし、突然別れを切り出されたなら納得いかずに問い詰めるだろう。ある意味、崎山の望み通りだ。
だけど。
「俺の手には負えないよ」
未知の生きものを見るような俺に、崎山は悠然と笑っている。とてもじゃないが太刀打ちできるわけがない。
今、湊も聖心の女の子と向かい合って笑っているだろう。だけど、湊は俺のようにうろたえたりしない。
好きだとか、付き合うとか、キスも、セックスも――。好奇心だけで踏み込むには、ハードルが高すぎるのだ。
それでも、もし崎山の誘いに乗ったなら、キスを、その先を知ることもできただろうかと、一縷の後悔が俺を嘲笑った。
なぁ。ミナは熱かった?
目の前でジュースを飲む崎山に、そう聞いてみたかった。