7・海と熱
「……ツ! タツ!」
不愉快な振動を起こす腕を振り払う。それでも、しつこい手が俺を揺すった。
「起きてください!」
睡眠時間はどう考えても足りていない。結局、寝付けないままに最後時計を確認したのが三時一四分だった。障子からは淡い朝の光が差し込んでいる。
「頼むからもうちょっと……」
「ミナとおばあさんがいません!」
二人でいないのなら大丈夫じゃないか。そう思ったところで、昨夜の一件を思い出した。あれは夢か現か、まだ俺の頭はぼんやりとしている。
「海……?」
「本当に行ったんですか?」
「え、ちょっと待てよ……」
ゆるゆると身を起こし、寝癖頭の悠一郎を見つめる。
「僕はてっきり、あの場でおばあさんを諦めさせる方便かと思ってたんです」
少しずつ動き始めた脳が、身体を動かした。
「見に行こう!」
寝巻き代わりのジャージのまま、外へと飛び出した。石垣の続く狭い道の向こうに、朝日が昇っている。時刻は六時になろうとしていた。一〇〇メートルほど走ったところで、角から人影が現れた。
「ミナ!」
思わず叫んだ先の湊が、不思議そうにこちらを見ていた。駆け寄れば、湊もばあちゃんも濡れ鼠だ。
「寝ててよかったのに」
平然とした湊とは逆に、俺と悠一郎はただ混乱していた。
「なんで服のまま海に入ったんだよ」
「いや、足だけ浸けるつもりだったんだけど、ばあちゃんがどんどん入るから一緒に」
「泳いだんですか?」
「俺、泳げねぇし。波打ち際で浸かってただけ」
気持ちよかったなぁ。ばあちゃんが孫に向いてうれしそうな顔を見せる。俺も悠一郎も、それ以上かける言葉を見つけられなかった。
順に風呂へ入る二人に合わせて朝食を準備した。ウィンナーと卵を焼いて、買い置いてくれていた食パンに添える。
小花柄のワンピースに着替えたばあちゃんが席に着いて、行儀よくいただきますと手を合わせた。
「みぃちゃん、気持ちよかったなぁ」
卵を頬張りながら、ばあちゃんがまたそう言った。それは、心底うれしそうで、俺はただ戸惑った。
「うん。海に入るのも悪くねぇよな」
プールの授業さえ嫌がっていた湊が平然とそう返す。それは、ちょっとぼけたばあちゃんに合わるための演技をしてるようには見えない。湊はこんな風だっただろうか。やっぱり湊は少し大人になっているのだ。自分を抑えて、だれかに寄り添っていけるくらいに。
「こうも暑いとさすがに泳ぎたくなりますよね」
早くも上昇を始めた気温に、珍しく悠一郎がぼやいた。常日頃、体育の授業など無意味だと愚痴を繰り返しているくせに。
「おばちゃんたちが戻ったら海行こうぜ」
クーラーの電源を入れながらの湊に、俺と悠一郎は揃って顔を見合わせた。
「ミナ……どうしたんですか?」
「なんか、目覚めちまったみたい」
怖々と尋ねる悠一郎に、あっけらかんとした湊が言い放った。
「みぃちゃん、また行こうなぁ」
「おう!」
仏間に戻ったばあちゃんは、また椅子で居眠りを始めている。
昼前に戻ったおばさん夫婦は、しきりに俺たちに礼を言い、泳ぎに行くなら昼食代だと太っ腹な小遣いをくれた。
湊はばあちゃんを海に連れて行ったことを話さなかった。俺は、物言いたげな悠一郎を視線で引き止めた。きっと、おばさんたちはばあちゃんを海に連れて行ってはやらないだろう。それは真っ当なことだし、むしろ湊の行動は非難されるに違いない。だけど、ばあちゃんは本当にうれしそうだった。だから、あれは孫との秘密のデートでいいような気がしたのだ。
歩いて行ける海水浴場は賑わってはいるものの、有名観光地ほどでもなく、適度なスペースを確保することができる。俺たちは端っこの岩場に荷物を置いて海に入った。
湊はレンタルの大きな浮き輪に顎を乗せて、心地よさげに波間を漂っている。
「目覚めたっていうのもあながち嘘じゃなさそうですよね」
「ミナ。せっかくだし泳げば?」
これまでは顔を浸けることさえ嫌々だった湊が、今日は浮き輪の隙間からときおりざぶんと頭まで浸かっている。
少し考えた湊が、浮き輪から抜け出した。
ファッションとしての機能しかもたなかったゴーグルが、初めて湊の目を覆っている。息を吸い込んだ湊が、軽い反動をつけて海に潜った。それは、惚れ惚れするような曲線で波に隠れる。
しかし、感嘆の声を上げかけた俺と悠一郎は、次の瞬間、慌てて浮き輪を投げる羽目になった。
「いや、ないって……これ、無、理だろ……」
塩水を飲み込んだのか、湊は咳き込みながら必死に浮き輪へとしがみついた。潜って優雅に泳ぐのかと思った湊は、あっという間にバランスを崩して海の中でひっくり返ったのだ。それは、いつもどおりの湊で、俺はどこかホッとしていた。
「そううまくはいきませんか」
「そりゃそうだろ。これでミナがすいすい泳いだりしたら、明日にはユッチが一〇〇メートル一〇秒で走れるぞ」
「それはいくらなんでもねぇよ!」
ゴーグルをつけた悠一郎と二人で、湊の浮き輪を意地悪く揺らす。湊が大袈裟なくらいにやめてくれと騒いだ。波の間を笑い声が駆け抜けていく。
夕暮れどきに差し掛かった浜辺は、取り残されたパラソルがわずかに残っていた。
「気持ちいいなぁ」
浮き輪の中から湊がつぶやいた。
湊はこの日、一度も海から出ようとはしなかった。
水着のまま、おばさんの家に戻って着替えると、おじさんの車で悠一郎を駅まで見送りに行く。さすがにこれ以上塾を休むことはできないらしい。
気をつけろよ。特急電車の窓越しに手を振る。今度、三人で来られるのはいつになるのだろう。
家ではおばさんが夕食の支度をしていた。客間に入ると、湊がごろりと寝転がる。その様子がややぐったりしているように見えて、思わずその額に手のひらを押し付けた。朝早くからばあちゃんと海に行って、午後もずっと海に入っていた。いくら体力があるとはいえ、疲れないはずがない。
予想に反して湊の額はひんやりと冷たかった。
「タツ。おまえ、手熱いぞ。熱でもあるんじゃねぇの?」
首だけを起こした湊が、心配そうに俺を見上げていた。そんなはずはない。疲れているのは湊のほうだ。
「そんなに熱いか?」
畳に投げ出された湊の手と握手をする。その手は、冬場の水仕事をしたあとみたいに冷たい。水に入りすぎて体温が下がったのだろう。しんどそうに見えるのはそのせいかも知れない。俺は、湊のもう片方の手も同じように握りこんだ。
「ミナの手、冷たくて気持ちいい……」
そのまま、ごろりと隣に寝転がった。意図せず触れた湊の足もまた、随分と冷え切っている。
「寒い? クーラー切ろうか?」
湊がいらないと首を振った。
「タツ、くっつくなよ。暑い」
心底嫌そうな顔で、湊が手を振りほどいた。心配してやってるのに。内心でぼやきつつも、大の字になった湊は気持ちよさそうだ。元運動部の新陳代謝は、俺とは違うのだろう。シャワーを浴びたうえ冷風にさらされ、夏だというのに肌寒い。俺は幼児のように身体を丸めた。
ご飯できたよ。台所から、おばさんの呼ぶ声がした。