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人魚熱  作者: 三一
6/19

6・夏休み

「今週の土曜から、海、行かねぇ?」

 夏休みが始まって三日目、湊から突然連絡がきた。咄嗟に返事ができなかった俺に勘違いしたのか、聞いてもいない理由を機関銃のごとくしゃべりだす。

田子(たご)に住んでる親戚がさ、オカンの従姉妹なんだけど夫婦で会社やってて、急に出張行かなきゃダメなんだって」

「田子って、昔一緒に連れてってもらったミナのばあちゃんとこ?」

「そうそう。そのばあちゃん、ちょっとボケてて三年くらい前から老人ホームにいるんだけど、建物の改修とかで一旦家に戻るようになってて、それが出張と重なってるらしいんだよ」

 そこは、小学生の目からすると、びっくりするくらいの田舎だった。普段当たり前に目にしているチェーン店は一軒もなくて、やたらと愛想のいい個人商店がぽつりぽつりと存在する。近所の半分は漁師で、朝早くのサイレントともに、港は活気につつまれる。

 初めて連れて行ってもらったのは小学校の低学年で、それまで湊家族と同居していた父方の祖母が亡くなった翌年だった。

「つまり、ばあちゃんと留守番?」

「それ。日曜にはおばちゃんたちも帰ってくるし、海で泳げるぜ?」

 にこにことする湊を前に、少し考えるふりをした。魅力的な誘いではある。昨年と違って塾もなく、げんなりとする課題はあるものの、そこまで忙しくもない。せっかくの夏休みに非日常なイベントは大歓迎だ。

「海って、ミナは泳げないくせに」

「泳げなくても遊ぶのは嫌いじゃねぇし。大体、海を嫌がってるのはオカンだけだからな」

 自分は泳ぐのが嫌なだけで、海は嫌いじゃない。偉そうに言い訳をする湊を、呆れた目で睨んでやった。おばさんが海を嫌いだという話は、小さいころから幾度となく聞かされた。湊の家系はなぜだか水難事故で命を落としてしまった人が多いらしく、事あるごとに水の怖さを言い諭されたものだ。

「ユッチも来れそうかな?」

「もう本橋先生の許可は取った。抜かりねぇよ」

 ふんぞり返った湊に、俄然楽しくなった。近所に住んでいるから、そこそこ顔は合わせるし、時間が合えば出かけたりもする。それでも、これまでに比べると回数はぐっと少なくなって、泊まりで一晩中遊び倒すなんてことはすっかりなくなっていた。

 そして、週末。特急に乗って三時間、電車に酔った悠一郎を介抱しながらおばさんの家までを歩いた。

「駅から歩いた? 迎えに行くって言ってたのに!」

 出迎えの挨拶もそこそこに、おばさんが湊に叫んだ。炎天下、一時間近くを歩いた俺たち三人は、水浴びをしたみたいに濡れている。

「ユッチが酔ったんだもん。歩いたほうが楽だろ?」

 それもそのとおりで、真っ青だった悠一郎はすっかり血色を取り戻している。その代わり歩き疲れて、ぐったりとしていたのだけど。

「来た早々ごめんね。もう行かなきゃ。家の中は適当にしてくれていいから」

 表では、すでにおじさんがミニバンの運転席に収まっている。

「ばあちゃんは?」

「仏間で昼寝してる。ときどきふらーっと出てっちゃう時あるから、目だけ離さないでね。ホント佳織(かおり)さんは実の娘なのに出て行ったきり、ちっとも寄り付かないんだから……」

 湊の母への愚痴をついこぼしたおばさんは、慌てたようにとりつくろうと、それじゃお願いねと頭を下げ、ばたばたとミニバンの助手席に乗り込んだ。車が走り去ると、急にあたりに蝉の声が響き始めた。見れば裏の斜面には大きな楓の木がある。

 とりあえず昼食にしようと、三人自然と持ち場についていた。俺はキッチンを借りて立ち、湊はばあちゃんの様子を見に、悠一郎は三人の荷物を仏間と間続きの客間に運び込んだ。米はおばさんが炊いてくれていて、正午を過ぎた時計を見た俺は、とにかく速度重視にチャーハンに取り掛かった。戻ってきた悠一郎が、食器棚を探して皿を出す。そうこうするうちにばあちゃんも起きてきて、四人は揃ってテーブルについた。

 美味しい美味しいと、しきりにばあちゃんが口にする。にこにこと口に運ぶスプーンからは、ときおり米粒がこぼれ落ち、隣の湊が笑いながらそれを拾う。

 食後は手分けして食器を片付け、先に持分を終えた悠一郎は課題をするからと客間に引っ込んだ。

「タツ、宿題とか持ってきたか?」

「持ってくるわけないだろ。どうせやらないし、重たくなるだけ」

「だよな」

 小声でささやきあい、やっぱり悠一郎はすごいと頷きあった。時間が空いたら勉強しようなんて、とても思いつかない。

「あ、麦茶ある。ミナ、飲む?」

「飲む飲む!」

 悠一郎にも持って行ってやろうと、グラスを三つ並べたところで、突然叫び声が響いた。

 ――おばあさん!! なにしてるんですか……!? ちょ、ミナ、湊!

 俺たちは顔を見合わせると、声の方向へと廊下を走った。客間を通り過ぎ、突き当たりの洗面所へと飛び込む。そこには、明らかに狼狽した悠一郎が、風呂場を向いて固まっていた。

「どうしたんだ?」

 救いを求めるように悠一郎が振り返る。

「おばあさんがその、暑いから一風呂浴びるっていうので、廊下の奥まで付き添ったんです。そしたら、そのまま風呂に入っていって水の中に……」

 悠一郎ごしに覗いた風呂場では、浴槽の中に服を着たままのばあちゃんが気持ちよさげに浸かっている。

「ばあちゃん、なにしてんだよ」

「みぃちゃんかぁ。こうも暑いとわしゃあ、からびてくるでなぁ」

「せめて、服脱いで、ドア締めなよ」

 湊の言葉遣いはいつになく優しい。呆れ顔の孫も、ばあちゃんは気にすることなく、ああ気持ちがいいと水に沈み込んだ。

 どうかしたんかぁ?

 表から呼ぶ声が聞こえる。ばあちゃんを浴槽から引き上げる途中の湊が、聞いてきてくれと目で合図をした。

「タネさんのお孫さんだろ? 大きな声が聞こえたけど大丈夫かい?」

 ばあちゃんよりは少しだけ若く見える老女が、心配そうに立っていた。聞けばおばさん夫婦と懇意にしている斜め裏の住人らしい。波田(はだ)と名乗った老女は、田舎特有に図々しさで家の中を覗き込んだ。

「いや、ばあちゃんが服のまま水風呂に入ってたんでびっくりして……」

 そう説明すると、波田はけらけらと軽快に笑った。

「タネさんは昔から泳ぎが達者だったからなぁ。もう海女さんみたいだったんで思い出したんかなぁ」

「へぇ、孫には遺伝しなかったんだ」

 泳ぎの得意な遺伝子は夏波にだけ受け継がれたらしい。

「タネさんとこの佳織ちゃんも、泳ぎはからきしで、いっこも海へは寄らんかったよ」

 ああ、でも。波田が何やら思い出したように声を潜めた。

「タネさんのお母さんも、兄弟も水難事故やったで、海は嫌だったんかもなぁ」

 なにかあったら声かけて。そう締めくくって波田は帰っていった。

「そういえば、夏波ちゃんがスイミング始めるとき、そんな話してましたよね」 

「確か、ミナも習わせようとしたけど、ストレスで蕁麻疹まで出て、諦めたんだって言ってた」

 結局、湊はいまだに泳げないままだ。

 洗面所では、湊がばあちゃんの身体を拭いて着替えを手伝っている。悠一郎は所在無げに背中を向けて立ちすくんでいた。俺も、老女とはいえ、女性の着替えを見てしまうのは本意ではなく、そそくさと台所へと逃げ帰った。

「すごいですよね、ミナは。おばさんがヘルパーさんとはいえ、ミナ自身はやったこともないはずなのに」

 俺を追うように台所に来た悠一郎が、三つ並んだグラスの一つを手に唇を湿らせた。狼狽えてしまった自分を恥ずかしがって、素直に湊を称賛してみせる。俺からすれば、そんなことより屈指の進学校に通う悠一郎のほうが断然すごいと思うのに。

「ミナみたいに、なにかあってもパッパッて動けたらいいんですけど」

「ミナみたいにって、あいつはあんまり考えてない場合がほとんどだろ?」

 悠一郎は下調べを重ねて行動に移すタイプで、それこそ湊とは性質が真逆だ。どちらがいいとか、そもそも比べられない。

「一時間に一本しかない電車を、うまく乗り継げるように調べてくれたのはユッチのおかげだったし、それぞれ役に立ってていいんじゃねぇの?」

「タツは食事が作れますしね」

「結局、そこかよ……」

 俺の利点は家事能力だけかと、どこか情けなく項垂れた。さいわい、悠一郎には聞こえなかったようで、美味そうに麦茶を飲んでいる。

 やがて湊も戻り、ばあちゃんはというと再び仏間の椅子で居眠りを始めた。

「静かだなぁ」

 客間の机では悠一郎がいくつもの参考書を並べて睨んでいる。たった一泊なのだから勉強を忘れて遊んだっていいじゃないか。あの分厚さではさぞかし重かったことだろう。

 湊は畳に仰向けになって、いつの間にか寝息をたてている。携帯端末のゲームをしようとしたものの電波が安定せず、諦めざるを得なかったのだ。

 俺はというと、客間の水屋に並んでいる、年季の入った料理本をぼんやりと眺めていた。古めかしいイラストで説明された、魚のさばき方を脳内でシミュレーションしてみる。

 外からはときおり、車の通り過ぎる音が聞こえる。それから、少し離れた国道を走る救急車のサイレン。それらがなくなると蝉の声。

 やがて窓の外が橙色に染まり始め、蝉の声が止んだあとは、ざぁざぁと波の音が忍び込んできた。

 ――六時になりました。お家に帰りましょう。

 町内に立つスピーカーから夕焼けこやけが流れだすと、湊がむくりと身体を起こした。

「夕飯、なにしようか」

 悠一郎もまた、参考書から顔を上げた。

「それ、作るんじゃねぇの?」

 寝ぼけ眼の湊が、俺の手にある本を指した。

「材料がない」

「刺身、美味そう」

「魚屋さんとか、あるんでしょうか」

「この辺の人らは朝、漁協へ行くんだよ」

 そのまま三人顔を見合わせて、だれからともなくため息をついた。一瞬でも美味い刺身を想像してしまったら、もう半端なものでは満足できないのか、その後の発案はろくなものがない。結局、痺れを切らした俺が、黙ってラーメンを作り出したところで、盛大なブーイングとともに夕食会議は閉会した。

 冷蔵庫にあった不揃いな夏野菜を大量に乗せたラーメンは、のそりと起きてきたばあちゃんにまた、えらく好評だった。

「なぁ、開明ってやっぱりみんな勉強できるんだよな」

 豆電球にぼんやりと浮かび上がる天井に向かって話しかけた。隣の悠一郎が寝返りを打つ気配がする。

 仏間で眠るばあちゃんが出て行かないように、湊はばあちゃんの隣で、俺と悠一郎は客間に布団を敷いた。仏間からは、湊とばあちゃんがなにやら笑いざわめく声が聞こえている。娘である湊の母はあまり寄り付かないという割に、孫はばあちゃんと気が合うらしい。

「ですね。中学だと多少サボっても一番でしたけど、今は十位に入るのもやっとです」

「中学、サボってたのか……」

「たまに」

 悠一郎がサボっていたなんてちっとも気付かなかった。そうぼやくと、悠一郎が照れ隠しのように笑った。

「タツとミナと一緒に遊んでると楽しくて、家に帰る時間をちょっとでも遅らせたくなるんです。行く前は五時には帰ろうとか思ってるんですけどね」

 そういえば、休日に遊ぶとき、俺の家に泊まるとき、いつだって三人同時に解散していた。それを、少しも疑問に思わなかった。

「だからサボってるっていうのはちょっと違うんですけど、勉強よりもずっと大事だったんです」

 今は勉強のほうが大事になったのかと聞きかけてやめた。そんなこと嫌味にしか聞こえない。将来の目標がある悠一郎は、どこかで選ぶ必要があっただけだ。

「今朝、三人で集合して、こうやって過ごして……やっぱり……」

 それ以上、悠一郎の言葉は続かなかった。言ってしまえば、自分の決意に若干の翳りを落としてしまうのだろう。

「すごいな、悠一郎は……俺なんか、なんにも変わらない」

「僕は、タツがタツのままでいてくれて助かってるけど。学校と塾ばっかり行ってると、ときどき自分がどんどん置いていかれているような気になって怖くなるんです」

「開明だと、そうなるんだろうなぁ……」

 俺はいつだって置いていかれている気がしている。悠一郎が目標に向かう姿も、湊が女の子とデートしている姿も、俺よりはるかに大人だった。

 いつの間にか仏間の声は途切れていた。ぽっかりと空いた無音の空間に、ざぁざぁと波の音が現れる。聞きなれない音は、どこか不穏で落ち着かなかった。

 ざぁざぁ。ざぁざぁ。

 耳を澄ますほどに波の音が大きくなる。

 ざぁざぁ。がさごそ。波に衣擦れの音が混ざる。だれかの寝返りだろうかと耳を澄ませる。それは、徐々に大きく響き、やがてぺたぺたと畳を歩く足音に変わった。

 襖の音に合わせて目を開く。

 豆電球の明かりに照らされているのは、浴衣姿のばあちゃんだった。

「ばあちゃん、どうしたの?」

「お手洗いですか?」

 起き上がった俺に続いて、悠一郎も上体を起こした。目を凝らした仏間では、湊がぐっすりと眠っている。

「からびてきたでな。海へ行ってくる」

 そう朗らかに答えたばあちゃんが、客間の畳に足を進めた。

「え? 海?」

 悠一郎が慌てたように聞き返した。

「ばあちゃん、待って!」

 俺たちの布団を通り抜け、客間を出ようとするばあちゃんを追いかけた。ちょっと待って。そう声を掛けながら前へと回り込む。

「ミナ! 湊! 起きろよ」

 叫んだ俺の声で、悠一郎が我に返り、仏間へ駆ける。そして、腹を出して大の字に寝ている湊を力強く揺すった。鈍い動きで湊が起き上がる。

「ミナ、起きろ! ばあちゃん海行きたいって!」

「……はぁ……? え!?」

 ぼんやりしていた湊が、弾かれたように立ちあがった。廊下の途中で引き止めたばあちゃんに駆け寄り、行ってしまわないようにその手を繋ぐ。

「ばあちゃん、もう暗いし危ないぞ」

「そうかて、このままじゃからびてしまうでなぁ」

 からびるって? 心底困ったとばかりに呟くばあちゃんの背後で、そっと悠一郎に聞いた。悠一郎が同じように声を潜めて、干からびるってことだと答えてくれる。

 魚じゃあるまいし、人間は干からびたりはしない。必死に説明する湊に、ばあちゃんは困惑を深くしている。だけども、もうからびてしまう。やりとりは堂々巡りで終わりが見えない。少しぼけているという所以はこういうところなのだろう。

 それでも、例え付き添ってでも夜の海に行くのは危険だ。

「ばあちゃん。それなら風呂は? 海は明日、明るいときにしてさ」

 俺の、咄嗟の思いつきに湊が大きく同意した。ばあちゃんだけが、わずかに眉を下げて考え込んでいる。

「暑い時分だと、着くまでにからびてしまう」

「……それなら!」

 湊が必死に声を張った。

「朝早く行こう」

 日が昇るのと同時に。次いで悠一郎に向かって、何時くらいがいいかと質問をする。不意に振られた悠一郎が、どもりながらも多分五時くらいだと答えた。

「ばあちゃん、それでいいか?」

 やっとばあちゃんが頷いた。

 ばあちゃんの水浴びを手伝って、再び布団に潜り込んだのは深夜一時を過ぎたころだった。湊が携帯端末のアラームをセットしている横で、ばあちゃんはさっさと寝てしまっている。

 眠気が飛んでしまった俺は、しばらく波の音を聞き続けることになった。


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