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人魚熱  作者: 三一
18/19

18・人魚の行き先

 翌日はどんよりと重たい雲が空全体を覆って、ときおり雨ともみぞれもつかない雫がこぼれ落ちていた。太陽が隠れているせいかひときわ肌寒く、スポーツ観戦で準備したロング丈のダウンコートを引っぱり出してくる。

 ユーターンラッシュの影響か、いつもより混雑した駅で皆が揃った。一番早かったのは悠一郎、次いで俺。約束の二分前に湊が到着した。ぎりぎりのくせに決して遅れはしないのだ。

 ゆったりとしたパーカー一枚を羽織った湊は、暑そうにマフラーを外すと「早く行こうぜ」とせっついた。

「この天気じゃ渡船やってるんでしょうか?」 

 昨年の秋にやっと手にした携帯端末を操作しつつ、悠一郎は眉間にしわを寄せた。個人のホームページ作成が流行った時代を思わせる、野暮ったい案内ページには出航時間だけが載っており、かつては更新されていたのであろうブログも数年前の日付を最後に止まっていた。

「問い合わせてみますか?」

 ページの下部にある電話番号を指さした悠一郎に、湊がしなくていいと首を振った。断られた悠一郎は端末を片付けながらも、納得いかないというふうに片眉を上げた。

 海に行きたいといい出した割に、湊はどこか他人事で、暖房の効いた車内に文句をつけつつ、しきりに濡れタオルを押し当てていた。

「暑いなぁ……これじゃ干からびちまう……」

 憮然とつぶやく湊に、既視感を覚えた。

 からびてしまうでな。今は亡き湊の祖母もそう海へ向かった。そして、帰ってこなくなった。

 胸の奥がざわざわと落ち着きを失っていく。気を紛らわせようと眺めた車窓は、降りだした雪で霞んでいた。

「なぁ、今日はやめとかないか?」

 思わず気弱な言葉が口をついた。二人の視線が俺に重なる。そこには、今さら何を言っているんだと、ありありと浮かんでいた。

 田子に行くよりも半分短い乗車時間で電車を降り、コンビニで食料を買い込んだ。駅前のロータリーで路線バスに乗ると、待ってましたとばかりに発進のアナウンスが流れる。

 ほとんど満席で出発したバスは、海が見えるころには五人だけになった。バス停のアナウンスに顔を見合わせ、湊が代表して降車ボタンを押す。次、止まります。機械音声が俺の逃げ場をひとつ消した。

 バスを降りた途端、潮の香りが鼻腔に充満した。どこか懐かしい空気は、道路の向こう側、古びた木造の住宅街の奥から運ばれてきている。だれも口を開かず、まるで見知った土地のように自然と歩き出した。

 はっきりとしない天候のせいか、十時を過ぎたというのに人影はほとんど見当たらない。ホームページに載っていた出航時刻は十時半だった。

 田子の路地とよく似た、塀に囲まれた道を抜けると、そこはコンクリートの港だった。まだ正月休みなのか、どの建物もシャッターを閉ざしている。漁協のフェンスに、やや錆び付いた看板で渡船の発着場を示す矢印が見て取れた。

「向こうですね」

 少し見えづらいのか、メガネの奥で看板を睨んだ悠一郎が先に立った。当たり前のように俺もその後へと続く。湊の声が聞こえたのは十メートルほどを歩いたあとだった。

「今日は、渡船休みだぜ」

 その声は予想より遠くて、振り向いた俺たちと湊との間は、ちょうど進んだ十メートル分が開いていた。

 また雪が舞った。水気を含んだ中途半端な雪だ。

「ミナ?」

 俺たちは十メートルの距離をまた詰めた。湿った雪を受けた湊が、気持ちよさそうに空を見上げた。やがて、こっちだと矢印の反対方向へと歩き出す。

 どこへ行くんだ。その問い掛けは、見えない手が俺の口を塞いだかのように、どうしても声に出すことができない。疑問はすぐに解決したい性分の悠一郎でさえも、粛々と湊の後を追いかけている。

 たった三人しかいないというのに、湊はハーメルンの笛吹き男のごとく、絶対的な力で俺たちを先導する。その足取りはむしろスキップでもしそうなほど軽やかだ。

 やがて、色とりどりのヨットやクルーザーが停泊するマリーナにたどり着いた。湊は迷わずその一隻に近寄った。停泊した船の中では随分と古ぼけて、白い船体も黄ばんだ船だ。

「久しぶりだね」

「おじさん……?」

 船の上に立つのは、湊の父だった。ここ数年はあまり顔を合わす機会がなく、久しぶりに見た姿は随分と老けて見えた。湊は無言のまま船へ飛び乗ると、俺たちを手招く。

 頭がくらくらと景色を歪ませる。

 揺れる船上で、一歩を踏みしめバランスを取った。おっかなびっくり飛び乗る悠一郎を捕まえて支える。

「しばらく動かしてなかったから、調子がどうかと心配したけど無事に走ってくれたよ」

 おじさんが船首を振り返って目を細めた。船は、小さい頃に一度乗せてもらったのと同じもののはずなのに、随分と小さく草臥れて見えた。

 悠一郎とふたり、手渡されたライフジャケットのバックルをたどたどしく留める。もやいを解かれたエンジンが高く唸りを上げると、ゆっくりと船が走り出した

 なにも不思議なことなんかないはずだ。湊は昨日実家に帰っていたし、湊の父は趣味の釣り好きが高じて船を所有していた。久しぶりに三人で出かけたいが目的地に行くための渡船が休んでいる。したがって、父に助力を請うことはおかしくなんかない。そう必死に自分へ言い聞かせる心は、泣きたくなるほど滑稽だった。

 いつからか、湊は父親と不仲だった。むしろ家族との間に深い溝ができていた。その湊が父親を頼るはずなんかない。だとすれば、おじさんはどうして船を出してくれたのだろう。

 船首に立つ湊は気持ちよさそうに海風を受けていて、こちらを振り返ろうとしない。俺と悠一郎は、ゆれる甲板で立つことを諦め、船のへりに掴まった間抜けな姿勢で座り込んでいた。

 僅か半時間ほどでさみしげな岸壁が迫り、船がゆっくりと接岸した。渡船の出ていない今日は、正真正銘の無人島だ。

「あの道を左手に行くと海岸があるよ」

 おじさんが舗装もされていない道らしきものを指した。風化の始まった看板がいくつも立ちつくしている。

「漁協に許可は取ってるから自由にするといい。ただし火は禁止」

 さっさと飛び降りた湊を横目に、俺と悠一郎はぼんやりとその注意事項に耳を傾けた。

「三時か四時には迎えにくるよ」

 穏やかに微笑んだおじさんにありがとうと頭を下げると、俺と悠一郎は順に船から飛び降りた。防波堤に立つ湊が海風に髪をなびかせている。そういえば、かつてまめに脱色していた髪は、いつのまにかそれが生来のものであるかのように色を薄くしていた。

「悠一郎君。達志君」

 その声は、離れた湊に聞こえないほどの控えめな音だった。悠一郎と同時に振り返った船の上、おじさんがなにかを言おうと口を開いた。俺たちは波に消えそうになるその音に、必死で全神経を向ける。

 口を開いたままのおじさんの口は、なにも音を出さなかった。皺の増えた目が、なぜ喋れないのかと戸惑ったように瞬き、やがて諦めたように閉じられた。

 白髪まじりの頭がゆっくりと俯く。それが、自分たちに向けての礼をしたのだと気づいた。顔を上げたおじさんは、さっきと変わらない穏やかさで俺たちを惑わせる。

 船のエンジンがまた高く哭いた。

「タツ! ユッチ! 早く来いよ!」

 湊の叫び声にも、俺たちはなぜか船から目を離せなかった。

 わずか半時間の航海中、父子は一言も交わさなかった。息子は父を見ようとしなかったし、父は穏やかな表情で息子の背を見つめていた。生まれたときから父を知らない俺には、この歳になった父子関係なんか分かるはずもない。悠一郎はというと、帰省のたびに医師である父と議論を交わし合う間柄で、それもまた湊とは重ならない。

 船が小さくなって、おじさんの姿が確認できなくなってから、やっと俺たちは海に背中を向けた。そして、一人先に行った幼馴染へと駆け寄る。

 遅いと湊が文句を言う。ごめんごめん。俺たちは口々に謝った。

「無人島だぜ?」

 湊は意味もなく得意げだ。

「マジでなにもないのか?」

「トイレもな」

 にやりとした湊に、三人の中ではやや繊細な悠一郎が嫌そうな顔を見せた。

「この先の浜辺から島の中心に行ったら、戦時中の基地の跡がある」

「ミナ、見たことあるのか?」

「小学校のときにな。苔とか生えててむっちゃ雰囲気あるぜ」

「見てみたいですね」

「今日は海!」

 うずうずと早る気持ちに逆らえなくなったのか、湊が走り出した。それは、まだ俺たちと同じ温度を持っていたころと同じ、風のように駆け抜ける姿。早く来い。走りながら振り返った湊がよろめいた。寸でのところで踏みとどまり、誇らしげに笑った。

 楽しくなった。俺もまた、つま先に力を込め、ごつごつとした土を思い切り蹴った。

 焦ったように、待ってくださいと叫んだ悠一郎が遅れて走り出す気配がした。

 白い息が後方へと流れていく。俺たちはいつかの運動会みたいに必死で駆けた。大学生になって定期的な運動をしなくなった身体は、思うように動かず、何度も足がもつれそうになる。悠一郎に至っては、踏みとどまれずに転んでしまった。それでも、俺たちは走り続けた。間抜けなほどに必死で。この世界には自分たち三人だけだ。なにも気にする必要はない。

 小ぢんまりとした浜辺に着いた時にはすっかり息が上がっていて、俺たちは次々と砂利の上に倒れ込んだ。リュックを投げ出して、コートのファスナーを開く。大の字に転がり、やがて耐え切れず笑いだした。苦しくなるほど笑って、起き上がる。

 立ち上がった湊がパーカーを脱ぎ捨てた。そのまま、疲れも見せずに海へと走り出す。

「ミナ!」

 追いかけようと立ちあがった膝は、情けなく震えていて、俺はその場で中腰に留まった。悠一郎は立ち上がることすらできずにいる。波打ち際の湊がスニーカーを脱ぎ捨てた。そしてためらうことなく海へ入っていく。

 水を含んだジーンズが藍色をどんどん濃くしていく。素肌にそのまま着ていたらしい薄手の長袖シャツが張り付いて、しなやかな湊のラインを浮かび上がらせた。

 あれ、帰りはどうするつもりなんでしょうか。着替えなんか持っていないのにと、悠一郎が呆然と呟いた。

 ざぶんと波間に消えた湊が、また頭を出した。手を振る顔には満面の笑みが浮かんでいる。思えば、こんなふうに笑う湊を見るのは久しぶりだった。

 俺は追いかけることを諦めて座り直した。湊はなんども波間で浮き沈みを繰り返し、気持ちよさげに前髪をかきあげた。やがて、少し高い波の中を泳ごうとしたのか身体を伸ばす。しかし、それはすぐにバランスをくずして不格好にもがいた。

 思わず悠一郎と二人吹き出してしまう。

 ひとしきり海を楽しんだ湊が軽やかに浜へと上がってきた。

 じっとしていたせいで寒くなった俺たちが、ロングコートをしっかり着込んで震えているというのに、湊はといえば濡れそぼった服のまま砂利の上に寝転がる。

「人魚だっていうなら泳ぎくらい上手くなればいいのに」

 これならカッパのほうがマシだ。皿さえ乾かさなきゃいいんだから。湊が冗談めかしてぼやいた。無意識に笑いながら、俺はどこか身体の芯が凍っていくような錯覚を起こしていた。

 大きな深呼吸で、湊が空気を胸いっぱいに吸い込んだ。重い雲からまた雪が舞い落ちる。

「なぁ、ミナ。触っていいか?」

 目だけを俺に向けた湊が、あっさりと片手を差し出した。氷のように冷たい肌が一瞬で俺の温度を奪っていく。それでも離そうとは思わなかった。

 やがて、悠一郎が同じように、湊のもう片方を握った。その表情がわずかに強張る。悠一郎が、実際湊に触れることはこれまでほとんどなかった。

「ミナ、もう少し待てそうですか? 僕が卒業するまで」

 悠一郎の声が震えていた。湊は答えようとしない。悠一郎が卒業するまであと四年。しかし、卒業したからといってすぐに独立した医者になれるわけではない。

 おそらくは零度に近い気温の中、湊は濡れた服のまま平然としている。冬の海で悠々と泳ぐ魚のように。

 熱いな。湊が苦笑いで手を離した。白い肌がほんのりと赤く染まっている。

「おまえらは濡れたら風邪引くしな」

 起き上がった湊がそう笑って、おもむろに濡れたシャツを脱ぎ捨てた。血管が透けそうなほど白い肌が現れる。

「悪い……ちょっとだけ」

 すまなさそうに肩をすくめた湊が、おもむろに俺たちを引き寄せた。凍りそうに冷えた髪からは、潮の香りが強く立ち上っている。悠一郎に触れる片側は温かく、湊に触れる片側は一切の体温を感じない。

「熱いなぁ……」

 湊がまたぼやいた。

「大丈夫か?」

「うん。もうちょっと」

 湊の腕に力がこもる。俺はその力に対抗するよう、二人の背を抱き寄せた。間髪入れず、悠一郎の腕にも力がこめられる。小さな円陣はかちかちに固まって動かなかった。

 湊の息遣いが徐々に荒くなっていく。やがて、耐え切れなくなったのかその腕を振りほどいた。

「なんで、こんなに熱いんだよ……」

 湊の顔がくしゃりと歪む。服を脱ぎ捨てた上半身は、軽い火傷をしたように赤くなっていた。

 冷やしてくるから。そう呟いた湊は海へと戻っていった。

 戻って? 違う。湊がいる場所はこの陸だ。戻るべきはこちら側のはずなのだ。

 一歩一歩と湊が波間へと沈んでいく。やがて、ざぶんと頭まで浸かった湊が、ホッとしたように天を仰いだ。

「どうして……」

 悠一郎が震える声でつぶやいた。小さな嗚咽が追いかける。

 タツは水で、ユッチは空気――。

 強くなった波に、湊がバランスを崩した。水を求める湊は、水に溺れる。水の中だけでは生きていけない。

 湊にとっての水。湊を癒し、傷つける水。

 悠一郎は、常に湊を包んでいる空気。だけど、ときにはその存在を忘れてしまう。

 どっちも必要だ。どれかひとつを選ぶことなんかできない。

「ミナは氷かな。気持ちいいけど、刺されたみたいに痛い」

「タツ?」

 そうしたら、涼香は火だ。暖かいけど、ときに燃え上がり俺を焦がそうとする。悠一郎は風だ。なにもないときは気づかなくて、だけど刺すような痛みも、焦げるような熱も、柔らかく冷ましていく。そして、ときには背中を、胸を、強く押すのだ。

 無性に湊に触れたかった。触れて、その体温を感じたかった。

「タツ!」

 慌てる悠一郎を振り切って、波打ち際まで歩いた。波間に顔を出した湊と目が合った。俺は笑った。

 足元に波が押し寄せる。一歩また一歩。俺は波を押しのけて歩いた。海水を含んだスニーカーがどんどん重くなっていく。足にまとわりつく布は、行かせまいとばかりに俺の自由を奪っていった。驚いた湊が浜へと戻ってきている。満ちる潮が、強く俺を押し返した。立っていられず膝をつく。冷水が一瞬で腹を覆い、その刺激に心臓が悲鳴を上げた。

 腹ばいの湊がすぐ前で俺を見上げている。その腰から下は海に隠されていた。

 人魚みたいだ。俺はその頬へと手を伸ばした。海水で思い切り冷やし、湊に触れる。湊の顔が今にも泣きそうなほどに歪んだ。

「タツ……ぅ」

 湊の手が俺の手に重なる。濡れた湊の頬を、涙が伝った。その涙だって、氷水みたいに冷たいのだ。

「なぁ、俺どうなっちまうのかな。このまま冷たくなって、そのうち心臓だって止まって……」

 湊はぽろぽろと泣いていた。湊の泣き顔なんか、夏波の葬式以来だ。それほどに湊は強かった。

「……キスがしたい」

「いいよ」

 屈んだ唇がすぐに重なった。湊だって体温を感じたいのだ。それは、俺の中でごく当たり前のことになっていた。

 しょっぱい唇が強く押し付けられ、ぬるりとした舌先が絡まった。

 アイスキャンディーみたいだ。いつかの夏休み、仲良く分けあった、甘くて冷たくて、口いっぱいに広がる幸せな味。

 痛みに耐えるように、湊の手に力が込められた。抱き寄せられる首筋に冷たい爪が食い込んだ。それでも湊は離れようとしなかった。

 舌先が冷たさに麻痺していく。だけど、湊にとっては焼けた石のキャンディだ。

 強い波が俺たちを離そうとなんども打ち寄せる。冷たさに痺れた肌はすぐに慣れて、むしろ海の中こそが温かいとさえ思えてくる。

「変だよな、俺ら……」

 舌足らずな湊がぼやいた。俺もまた、浜辺で愕然としているだろう悠一郎を思って小さく笑った。腕の中にいる湊も、小刻みに震えている。それは、笑っているようで、泣いているようでもある。

「なぁ、ミナはなんで俺にキスしたんだ?」

 焼ける痛みに耐えてまで、必要なものでもないだろう。俺はずっと聞けなかったことを初めて湊にぶつけた。

「タツを試したかった。いつだって文句言いながらなんでも受け入れてくれるタツが、どこまで俺を許してくれるのか」

 強い波に足を取られた。必死で捕まえた湊は、海の一部みたいにゆらりと浮かぶ。

 キスをする必要なんかなかった。ほかにいくらでも確かめる術はあったはずで、湊だってそんなことくらいわかっているのだ。

 それでも、キスを選んだ。

「俺は、ミナとくっつくのも、キスするのも全然嫌じゃなかった」

 むしろ、冷たいのに熱くて、眩暈がするほどに心地よかった。それは、背徳感の混じった快感だったのだ。

 そして、俺は初めて自分から湊にキスをした。海水の中で、湊が俺にしがみついている。こんな弱々しい湊は知らない。いつだって、強くて明るくて、俺はついていくのがやっとだった。

 なぁ、タツ。

 唇の隙間から湊が呟いた。

「俺たちはいつだって、何かに溺れてて、何かの熱に浮かされてるんだ」

 恋に溺れて、嫉妬に溺れて、快楽の熱に浮かされる。どうしたんだ。哲学者みたいじゃないか。そうからかおうと開きかけた唇を、湊が塞ぐ。

 熱が欲しいんだ。生きてる体温が。湊がすがるように俺を見上げた。

 人魚の熱はもう人とは重なれない。

「なぁ、どこで間違ったのかな」

「ミナ……」

 俺はひたすらに無力だった。

 やがて、湊から力が抜けた。小さく開いた口から覗く舌は、赤く爛れている。

「タツ。サンキュ……」

 舌足らずに笑った湊が、冷やしてくるからと背を向けた。ざぶんとその姿が水に消える。

「ミナ!」

 行ってはダメだ。心は、張り裂けそうなほどに泣き喚いている。追いかけなくてはという焦りと、追いかけたところでどうするのだという諦めが、両側から俺を押しつぶした。それでも、肉体は波を掻き分けて湊を追っている。

「ミナ!」

叫ぶ声は波間に捕えられ、嘲笑うかのように行く先を阻む。

「タツ!」

 不意に背中が熱くなった。

「ダメです!」

 悠一郎が必死に俺を抱きかかえていた。俺たちは胸まで海に浸かっていて、待ち構えていたかのような大波が頭上に落ちる。濡れた顔を冬の風が撫で、凍てつく痛みに唇を噛んだ。

 塩水に沁みる目を必死に凝らしても、湊の姿はどこにも見つけられない。

「ユッチ……ミナが」

 奥歯がかたかたと震え、それ以上なにも続けられなかった。苦しいほどに俺を引き止める悠一郎もまた、小刻みに震えている。

 寒さと、恐怖と、寂しさと、後悔と――。

 混ざりすぎて訳のわからなくなった感情が、俺たちを責め苛んだ。

 湊は海から戻って来なかった。

「海に帰ってしまうくらいなら、もっと頼ってくれればよかったのに」

 濡れて震える俺たちを見たおじさんが、全てを悟ったように声を震わせた。ああ、やっぱり。湊はもう、戻ってこないのだ。

「私はひとりになってしまったよ」

 腹の奥がずしりと重かった。

「人魚熱……」

 悠一郎のつぶやきを拾ったおじさんが、首を傾げて、やがて寂しそうに笑った。

「本当に、人魚みたいだったね」

 湊にとっての理解者と、湊の母にとっての理解者。俺たちとおじさんとは同じ役割だったのだ。いつからだったのだろう。同じ苦しさを耐えていたはずの母子は、その痛みを共有できていたのかどうか。せめて、少しでもわかり合えていたならと、思わずにはいられない。

「私は、なぜもっと……」

 話し合えなかったのか。そんな後悔が続けられたのかどうか、その泣き顔からは知ることができない。それでも、どの選択肢を進んだところで、後悔なしには済ませられなかっただろう。

 悠一郎は俯いて、苦しげに嗚咽を繰り返している。俺は、心が空っぽになったみたいになにも感じられらなかった。それなのに、涙だけは止まることなく頬を伝った。

 湊と夏波とその母、祖母、さらに伯父、曽祖父。恐らくはみんな同じように熱を失くしていなくなったのだ。原因なんかわかりやしないから、俺たちはただそれを人魚熱と呼ぶ。

 船に乗る間際、俺たちは揃って浜辺に目を凝らした。そこにだれかが浮かんでくるかと、叶わない望みを捨てきれず、見つめ続けた。


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