17・子どもと大人の境目
一月三日。あえて元日を避けたのに、いつもの神社は参拝客で行列ができていた。
「今年、人多すぎじゃねぇ?」
「テレビで紹介されたんだよ。アイドルの誰だっけ? なんか恋愛成就だとか」
そのせいだろう。参拝客も若い女性が特に目立っている。
湊はげんなりとした様子で、小さなハンドタオルを首に押し当てた。湊の、斜めがけのカバンにはペットボトルが入っていて、ときおり飲むふりをしてタオルを湿らせる。
「そういった確証の取れない噂に振り回される心理は理解し難いですね……」
悠一郎もまた、対向する人を常に躱しながら、早くも疲れを見せている。
俺だけが比較的元気に周囲の人を観察していた。境内の隅で腰掛け、屋台で買った甘栗を三人でつまむ。目の前では、おみくじを引いてきたのか、晴れ着姿の三人組が楽しげにはしゃいでいた。歳の頃は自分たちと同じくらいだろうかと考えていると、当たり前だが目が合ってしまう。
「着物かわいいね。この辺の人?」
間髪入れず、ナンパ紛いに声をかけた湊を悠一郎と揃って、ぎょっと振り向いた。ペットボトルの水を一口飲んだ湊が、食べる? と甘栗の袋を差し出している。互いに顔を見合わせた女の子たちは、少ししてありがとうと袋に手を入れた。
「進学で引っ越してきたんだ? 一昨年? じゃあ同い年じゃん」
「そっちは地元の人? このあとご飯食べに行こうって話してたんだけど、お勧めのお店とかある?」
それなら、駅の裏にある――。端末を取り出した湊が、地図アプリを立ち上げて説明をしている。
「三人、同じ大学?」
「違うよ。俺はF大、こっちがJ大と、こっちがK大」
「K大ってK大? すごいね」
「キミらは?」
「あたしは専門で、こっち二人はS短大」
よかったらお昼ご飯一緒にどう? 専門学生だという、いちばん背筋の伸びた女の子が誘った。隣の女の子は少し驚いて戸惑っている。
こちら側は、悠一郎だけが落ち着かなさげに視線を泳がせていた。
「サンキュ。でも、このあと高校時代のツレと待ち合わせてんだ」
残念そうに肩をすくめた女の子と、湊がまた今度遊ぼうと連絡先の交換をしている。湊とのやりとりを終えた女の子が、俺に向き合った。手元の端末は当たり前のように俺のほうへ向けられている。
湊だけじゃなくて俺とも交換してくれるんだ。それが少し新鮮だった。
「ごめん。俺、彼女いるから遊べないんだ」
嫌味にならないように少しだけ笑って断った。次にと向かい合った悠一郎は、これまで見たことがないくらいうろたえていて、見かねた湊が手伝ってやっていた。
連絡先を交換したところで、悠一郎が女の子と人並みにメッセージをやり取りする姿は想像できなかった。
またね。軽やかに手を振った女の子たちが離れていく。
「ユッチ。おまえテンパりすぎ」
「ミナが、あんな……軽すぎなんです」
「俺はいつもこんな感じじゃん」
あっけらかんと開き直る湊に、助けを求めるような悠一郎が俺を見上げた。俺としては苦笑いをするしかない。
「高校のときからこんなチャラ男だったよ。女子限定で」
考えてみれば、高校時代は悠一郎だけが先に離れたせいか、自由奔放な湊を話に聞きながらも実感できずにいたのだろう。三人で集まれば昔と変わらないものだから、気づいていなかったのだ。
「タツはなんか手馴れた感じになっててつまんねぇ」
「なんだよ。その言い方、腹立つな」
耐え切れず三人同時に吹き出した。
「でもミナ。このあとの約束なんてしてましたっけ?」
悠一郎が首を傾げると、湊が珍獣でも見るような目で見つめ返した。よくぞあの場で突っ込まずにいてくれたものだと、ありありと顔に書いている。
「そんなもん嘘に決まってるじゃん。せっかく久しぶりに三人揃ったのに、女と遊ぶとか時間もったいねぇ」
今度は悠一郎が湊に白い目を向けた。
「こういう男がモテるんだよ。腹立たしいことにさ」
そう悠一郎の肩を叩いた。湊はというと気にした素振りもなく、水で濡らしたタオルを顔全体に押し当てた。
「ユッチ、いつまで実家にいんの?」
「成人式に出てから戻ります」
いつからか、出席率を上げるために成人式は正月とくっつけて開催されるようになった。今年は、明後日の五日がそうだ。
俺と悠一郎はすでに二十歳になっていて、早生れの湊だけが一九歳だった。
「式の後、飲みに行こうぜ」
「ミナはまだ二十歳になってないだろ」
「そんなもの、飲んだってわからねぇよ」
「そういうくだらないルール違反が、なにかあったときに取り返しがつかなくなるんですよ」
あまりにも正当な主張に、湊が黙り込んだ。俺はきっと湊と二人だったら湊寄りの考えになる。けれど三人になると、二人の中間に立って正しいと思う側に納得をする。それは大抵の場合、悠一郎の側で、だけどそうやって二対一になっても湊は平気な顔をする。
俺には自分があまりないのだ。最近そう自覚を持ち始めた。重大なルール違反なんかを除けば、大概のことはどうでもいいと思えてしまう。
「じゃあ俺はノンアルコールでいいから飲みに行こうぜ」
きっと、湊はもう大人の顔でアルコールのない酒を飲むだろう。そして、悠一郎は最初の一杯を付き合ってから烏龍茶にする。俺は苦味だけの酒を、さも美味いかのように飲んでいるはずだ。
成人式のあとに飲もうというのだってそもそもが口実で、俺たちはいつの間にか大きくなった隙間を、どうにかして塞ごうともがいている。
「海、行きてぇ……」
タオルでは物足りないのか、湊は残り少なくなったペットボトルの水を頭からかぶった。昔と変わらない軽快さで喋っていたが、気づけば少しだるそうに背中を丸めている。
「明日、行くか?」
「明日!?」
悠一郎が飛び上がって驚いた。
「だって、ユッチは明後日の晩には戻るんだろ? だったら明日しかないし」
せっかく空いた時間を無駄にする理由はない。驚いている悠一郎だって、元日以外はなにも予定を入れていないことくらい知っている。
俺も、元日に涼香と少し離れた神社に初詣に行って、その後は高校時代の友だちやら、いもしない親戚をでっち上げて時間を空けていた。最も、正月で慌ただしいのは真っ当な家庭の涼香のほうで、予定を並べるとどこかホッとしたように、松の内が明けたら遊びに行こうと答えた。
湊は、実家にすら帰っていない。多分。大晦日の朝に俺の家へと押しかけて、元日の朝まで一緒に過ごした。俺が家を出るのと一緒に実家に向かった振りをしていたが、夜遅くになって行ってもいいかと電話をかけてきた様子から、湊は帰らなかったのだと分かってしまった。
家族とケンカしてるのかと、遠まわしに問いかけた俺に、湊は少しだけ言いよどんだ。それから、珍しく目をそらして呟いた。
ケンカになんかなるもんか――。
どういうことだと問い返したい気持ちと、踏み込んでいいものかと迷っているうちに、テレビの正月番組に見慣れた駅前が映ったことで機会を失った。
「田子の海ですか?」
その気になった悠一郎に、湊が首を振った。
「違う海がいいな。田子に行く途中でさ、無人島があるの知ってる?」
「それ知ってる。アニメかなんかのモデルになったっていう島だろ?」
「それ。魚島。渡船が出てんだ」
「冬でもですか?」
湊が得意げに頷いた。
「明日はちょっと天気がよくなさそうですけど……」
「船とか出るのか?」
「大丈夫だって」
根拠もない癖に湊がそう言い切った。俺と悠一郎は顔を見合わせて、それ以上の反論はしなかった。もし、島に渡れなかったとしても、そこだって海の一部なわけで、一緒に行くことが最優先なんだと暗黙の了解があったのだと思う。
明日の朝七時に駅へ集合。そう決めて神社を後にした。点滅信号の交差点で、悠一郎が実家への角を曲がる。
そういえば、湊も悠一郎もすでにこの交差点の先は実家という場所になっていて、生活の拠点は変わってしまっている。俺だけがやっぱりなにも変っていないのだ。どんどん世界が離れていって、それでもこうして一緒に過している。
来年の、再来年の自分たちを想像することはすでに困難だ。
「ミナはどうする?」
一緒に家に来るかと尋ねると、予想に反して湊は首を横に振った。
「家、帰ってくる」
当たり前だとばかりに手を振って背を向けた湊を、呆然と見送った。
分かった気になっていたのに、分かっていなかったのだろうか。ぜんぶ自分の妄想のなかだったのか。家族と疎遠になっていたように見える湊も、俺の知らないところではちゃんと交流をもっていて、ただそれを表には出していなかっただけなのか。
「おかえり。楽しかった?」
正月休みの母が、昼間からビールを楽しんでいた。付き合ってよ。そう差し出された缶ビールに釣られてテーブルにつく。覚えたてのビールはただの苦い水で、俺はいつも通り、それをあたかも美味いという顔をして飲み干した。
二十歳になったとき、なんとなくタバコをひと箱買ってみた。それも、火をつけて吸い込むとただただ苦くて、俺は結局一本も吸い切ることなく火を押し消した。
大人になったのだと言われたところで、昨日と今日でなんら変わりもない。我慢を重ねて味わっていくうちに、苦味にも慣れて美味いと思えるようになるのだろうか。だとすれば、それは依存性のある薬と同じで、慣れてしまうころには逃げられなくなっているというだけのことだ。
「彼女ほっといて男友だち優先とか、女の敵よ?」
「あっちだって親戚の家に行ってる」
「そんなこと言って、男交えてと盛り上がってたりして」
「別にそれはそれでいいだろ?」
にやにやと息子をからかっていた母が、真顔でわざとらしくため息を吐き出した。
「思ってなくても嫉妬して、心配してあげたら喜ぶもんよ」
「めんどくさ。母さんはそういうのが嬉しいのかよ」
「やだ、めんどくさいわ。だけど大多数の女の子は喜ぶんだって」
意味がわからない。酔っ払った母をひと睨みすると、三分の一ほどになったビールを一気に飲み干した。どうやら自分は酒に強い体質だったらしい。立ち上がって冷蔵庫から二本目のビールを勝手に取り出した。
「そういや、ミナが今日は実家へ帰ったよ」
「そっか。よかった。文美子さんと心配してたのよ。最近佳織さんと全然会えてなかったから」
「ミナとこのおばさん、どうかしたのか?」
「いつ行っても留守か、敏彦さんがいるだけで、仕事に行ってるって言われるのよ」
「仕事って老人ホームだよな?」
「だと思うわ。夜勤ばっかり入ってるって言ってたし」
子どもも半分独立したようなものだし、仕事に本腰をいれるつもりなのかもね。母が分かったように呟いた。
「それはそうと、ユッチのおばさんとは会ったのか?」
「先々週かな? 目が見えにくくって視力検査行ったついでにね」
「視力下がった?」
「あー……下がったというか」
言いよどんだ母に閃いた。ついつい口元が緩んでしまう。
「老眼か」
うるさい。ドスの効いた唸り声と同時に、ティッシュケースが飛んできた。すかさずキャッチして、これみよがしに丁寧にテーブルへと戻した。忌々しげな母に向かって笑うと、飲み終えた缶をキッチンに捨てて部屋へ引っ込んだ。
ベッドに寝転がって携帯端末を開くと、メッセージが数件溜まっていた。
涼香からは姉妹で撮ったとだという初詣の写真が添付されている。それは、晴れ着でもない、いつも通りの涼香だった。少し考えて通話ボタンを押した。一〇秒ほどで涼香が応答する。
なにしてた? 従兄弟の子どもたちとゲームしてる。六日大丈夫? 大丈夫だよ。達志君の成人式の写真見たいなぁ。そんなの撮らないよ。えぇ、残念。じゃあ撮れそうならツレに頼むよ。
電話の向こう側では子どもたちのけたたましい騒ぎ声が聞こえている。小学生くらいだろうか。自分たちもあのころは、一緒に遊ぶたびになにが楽しいのか全力で笑い合っていた。うるさいよと、どの家でも母親たちが、そう眉を吊り上げていたほどに。
早々に電話を切って、ぼんやりと天井を見上げた。
やっぱり、自分だけいろんなものが宙ぶらりんで止まっている。見つけたと思った草原のなかの道は、いつの間にか草に埋もれてどこにあったのかさえ思い出せなくなっていた。
どこへでも進める。だけど、どこへ向かえばいいのか分からない。強いて言えばどこでもいいのだ。むしろ、手を引いて連れて行ってくれる人を求めている。
俺の両手は、片方に湊がいて、もう片方に涼香がいる。悠一郎はずっと先に進んでいて、ときおり振り向いては俺を呼ぶ。
ベッドサイドに放り投げていた携帯端末を手探りに引き寄せ、また少し考えた。
タツ。どうしたんだ?
驚いた湊の声がスピーカーから流れた。
「なぁ、ミナ。俺、どうしたらいいかな?」
は? なに言ってんだ?
「ミナの側にいたいし、涼香とも一緒にいたい。でも、無性にユッチを追いかけたい気分にもなる。それなのに、どれもしたくなくなるんだ」
湊はなにも答えず、スピーカーからはゆっくりとした呼吸音が繰り返される。難しい話が嫌いな湊は、きっと困った顔をしているだろう。
思えば、俺は自分の心にある灰色の靄からずっと目を背け続けてきた。なんの取り柄もない平凡な自分を受け入れた振りをして、変わろうとすらしない。
なぁ、タツ。
深い深呼吸がスピーカーからこぼれ、俺は必死に耳を澄ませた。湊が発する吐息の欠片も逃さないように。
俺にとっては。湊が息を吸い込んだ。
タツは水で、ユッチは空気なんだ。
なにかが俺の中に染み込む。それは水で、空気で、でも、なにものでもない何か。
湊が堰を切ったように、しゃべり続けた。
タツは、いつも飄々としていて、きっと俺なんかいなくても平気で……だからもういなくてもいいやって思ったんだけど、どうしてもダメだった。だから郡一高にしたんだ。くだらない理由だろ?
あのときは恥ずかしくて言えなかったのだと、湊は照れ隠しのように吐き捨てた。
そして、もう一つ。バスケットを止めたのは、その頃からすでに湊の体温は下がり始めていたからだろう。
郡受けてよかったって思ってる。
湊らしからぬ、しみじみとした声が続いた。
「俺、このままでいいのかな」
そんなはずないのに、肯定してほしい甘えから問いかけた。電話の向こうで湊が笑う。
いいぜ。タツはそのまんまで。変わるなよ。
詰まりかけた声を誤魔化すために、わざとらしく笑った。
「サンキュ」
明日、遅れるなよ。そう通話が切れた。
俺は水なのか。湊が自分をなぜ水に例えたのかいまいち理解できないまま、それでも必要とされていることで救われた。
明日、子どもでいられる最後の日を、三人で過ごす。俺も悠一郎もすでに社会的には成人していたけど、それとは別に三人同時に階段を上りたかった。
一リットルにも満たない酔いが、じわじわと思考を鈍らせていく。ふわふわと水に浮いたような心地よさに身を任せ、俺はゆっくりと目を閉じた。