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人魚熱  作者: 三一
16/19

16・水と熱

 一二月に入り、随分と冷え込むようになった。ダッフルコートを着た涼香は、夏より更に幼く見える。

 その日はF大の近くで、世界のクリスマスとコラボレーションをした美術展が開かれていた。大学に置かれていた割引券を口実にデートを決めた俺たちは、値段の割に豪華なアーティストが揃った展示に、すっかり時間を忘れて楽しんだ。おかげで、地元に戻ってから食事をする予定が、思ったよりも遅くなってしまった。そういえば、この先に湊のアパートがある。そんなことを口に出せるはずもなく、夕食に入った居酒屋チェーンを出た俺たちの前に、予想外の雨の壁が立ちふさがった。

「なんか、私たちってこういうの多いよね」

 いつかの大雨を思い出したのか涼香が笑った。それ以外にも、出かけると意外に雨と遭遇することが多い。天気予報が晴れだったのにも関わらずだ。涼香と付き合っているのが湊なら、さぞかし雨の恩恵を受けたことだろう。

「どっちが雨男か雨女か」

「え……あ、でも私かも」

 小さいころから遠足は高確率で雨だったのだと涼香が首をすくめた。

「どうする?」

「とりあえず傘をゲットしたいけど、濡れるね」

「タクシーで近くのコンビニまで……って嫌な顔されると思う?」

「それはされると思うよ」

 そこまで相談して、飲み屋街に待機するタクシーの列を同時に見つめた。駅までタクシーで行こうか。それは予算がきついね。そんなことを喋るうち、雨がやや弱くなった。

 顔を見合わせ、どちらかともなく「今のうちに」そう走り出した。一本曲がった先にコンビニがあったことを覚えていたのだ。

 全身がしっとりと濡れたもののコンビニまで走り抜け、肩で息をしながら傘を買い求めた。外はまた気まぐれな空がバケツをひっくり返している。コンビニには他にも雨宿りの若者がいて不安げに外を見つめていた。

 強行突破を選んで歩道を歩く人の半分は、雨具の無駄を悟って、閉じた傘を片手に持っている。

「達志君。これ、何分待つ?」

 こんなときでも楽しげな涼香が、携帯端末の時計を確認しながら、にやりと笑った。涼香はあまり愚痴というものを出さない。どんなときでも、無茶な提出期限のレポートに取り組んでいるときさえどこか楽しそうだ。

 俺は涼香の端末を隣から覗き込んだ。時刻は九時を少し過ぎたところだった。

「半時間……いや、二〇分かな」

 それで止まなければタクシーを呼ぼう。その提案に涼香も頷いた。

「みんなびしょ濡れだね。あ、でもあの人はなんか気持ちよさそう」

 涼香が雨壁にぼやけた人影をそっと指した。その、恐らく男性は、一二月の雨だというのに、身体に張り付いた衣服は極薄く見えた。雨よけの意味なんかないだろうパーカーのフードを被り、パーカーのポケットに両手をつっこんで、どしゃ降りの中の散歩を楽しんでいるようにさえ思える。

 視界の端から、目の前の歩道に差し掛かり、そして通り過ぎる彼を見ているうちに、濡れるのも案外気持ちがいいんじゃないかと思い始めた。彼がふと、振り向いた。立ち止まった彼は、フードを脱ぎ去り、雨に濡れた前髪をかきあげる。大きな目がまんまるくなったのが、なぜだか分かった。

 タツ。

 その口元が動いた。駆け足に近寄った湊が、俺と涼香を交互に見た。

「どうしたんだ? こんな日にデート?」

「そこの商業会館で展示会があったんだ。あ、こっち彼女。涼香、これがいっつも言ってる幼馴染の……」

「長山です。よろしく涼香さん」

 珍しくかしこまった湊に、気持ちが悪いからやめろと脇を小突いた。湊がひどいなといじける振りをする。

 軒下に収まった俺たちの向かいにいる湊は、濡れ続けている。

「あの、濡れるよ?」

 気を遣った涼香が奥に一歩下がった。そして、ほら達志君も場所を開けて。そうジェスチャーをしている。だけど湊は雨宿りなんかするわけがないのだ。

「大丈夫だよ」

「そうそう。俺はここでいいんだ」

 同時に答えた俺たちに、涼香が顔を曇らせた。

「身体、冷やさないほうが……」

 幼馴染の一人は体調があまりよくないのだと説明していたせいで、涼香は見当違いの心配をしてしまっている。

 困ったように俺を見上げた湊に、悪いが話を合わせてくれと目で訴えた。

 急に降り出した雨は、あがるのも突然だった。地面に現れた大きな水たまりに、半分欠けた月が映っている。

「あーあ。止んじゃったか」

 空を見上げてため息をついた湊に、涼香がタオルを差し出した。湊はやっぱり困ったように、いらないと断る。せっかく水を浴びたのに拭いてしまっては意味がない。

 それでも、雨上がりに一人濡れそぼった人を放っておけないのか、涼香はそのタオルを仕舞えずにいる。

「涼香。いいから」

 そうたしなめた俺を、涼香は唇を噛んで見上げた。その顔はなぜか泣き出しそうに見える。

「私! 先に帰るね。達志君はほら、友だちに傘借りられるでしょ?」

 不自然に明るい声を出した涼香が、俺の手からビニール傘を奪い取った。

 また明日。涼香が背中を向ける。呆気にとられた俺は、小さくなる涼香の背をぼんやり見つめ、それから助けを求めるように湊を見た。

「えと、そういうことだからミナ。傘貸してくれる?」

 もう降らないような気もした。それでも、こんな空だ。備えておいたほうがいいだろう。なんなら湊のアパートで少し喋って帰るのも悪くない。あまり遅くなると心配する涼香の家と違って、終電を逃したところで明日の授業に間に合えばいい。

「タツ。おまえ馬鹿だろ」

「え?」

 呆れたような湊が、なにを非難しているのか思いあたらなかった。

「ここは追いかけるとこだろ。普通」

 湊が涼香の去った駅の方向を指差している。

「俺、怒らせたのか?」

「俺にはそう見えたけどな」

「なんで……?」

 少しだけ目を伏せた湊が、なぜか寂しそうに笑った。

「自分の知らない世界に嫉妬してんだよ」

 愛されてるな。そう湊がからかう。

 俺はまだ混乱していた。涼香の知らない世界は、俺たち三人の世界だ。それは二〇年も積み重ねられたもので、ほかのなにかと比べられるものじゃない。

「女は、好きな男の一番でいたい生きものだろ」

 わかったようなことを言うなよと睨んでから、少し考えた。

 一番、二番。好きに順序を付けるとしても、涼香と湊を比べることなんかできやしない。湊や悠一郎の存在は、ほかのだれかが取って代われるものじゃないのだ。

 そう言い返した俺の頭を、背伸びをした湊が慰めるように撫でた。

「俺だってタツやユッチの代わりなんかいねぇよ。だけど、それは表に出すことじゃなくて、建前は彼女が一番好きって態度を見せてやればいいんだ」

 そうすれば上手くいくから。目を細くして囁いた湊は、共犯者のような顔を見せた。

「ほら、早くしねぇと間に合わねぇぞ」

 どんと胸を押されてわずかによろめく。

「わかったよ」

 素直に頷くことは少し恥ずかしかった。じゃあ、行く。そう踵を返そうとしたところで、湊の手が俺に繋がった。

「悪い。ちょっとだけ温かいのくれよ」

 背中に湊の感触を受けた。それは、みるみる俺の服を湿らせていく。服越しの肌は冷え切っていた。雨がまたしとしとと降り始めた。

「雨のなかなら気持ちいいんだよな……」

 くぐもった声が皮膚越しに俺を震わせた。息がかかったはずの背中は、やはり温度を感じない。

「ちぇ……もう熱くなってきた」

 湊がゆっくりとその身を離した。柔らかな雨が降り注いでいる。流れ落ちる端から、湊を守る膜のように空気と混ざる。

 また、湊が冷えていく。冷えて冷えて、やがては温もりを無くして消えてしまう。

「ミナ、俺は」

 言いかけた肩を湊が押した。せっつかれるままに走り出し、歩道で振り返った。

 湊ががんばれよと手を振っている。俺はまとまらない思考を隅に押しのけ、半自動的に足を動かした。雨が頬に当たる。湊はまた雨を浴びながらの散歩をするのだろう。その隣で傘を差し、濡れそぼった湊と並んで歩きたい。悠一郎も呼んで、三人で馬鹿な話に盛り上がって、ただ笑い続けていたい。それが叶うなら、この先ずっと太陽なんかでなくてもいいのに。

 駅の明かりが目に飛び込んだ。改札の手前、コーヒーショップに見覚えのある後ろ姿を見つけた。

「涼香!」

 びくりと震えた背中が振り返る。店員が甘いクリームの乗ったコーヒーを涼香に手渡した。

「ごめん俺……」

 うまく言葉が思いつかず、カップを持たないほうの手を握った。

「私のほうこそごめん。あんな風に帰って、印象悪いよね……」

「怒られたのは俺のほう。涼香に心配かけてるからって……俺、気づかなくて涼香に嫌な思いさせたよな」

 いつだったか。自分だけを見てくれなきゃ嫌なんだと笑った女子を思い出した。いろんな事象を認めて、理解した上で、やっぱり自分を見て欲しい。それが、心からのものじゃなくても、その形を確かめたいのだ。

 涼香は崎山のように思ったことを遠慮なく口に出すことはしない。人の気持ちに敏感で、しなくてもいい忖度をして落ち込んでいる。俺とは真逆の性質だ。だからこそ、得難く愛しい。

「俺、こんなに鈍くて、涼香のこと嫌な気持ちにさせて……」

 それでも付き合い続けていいのだろうか。

 いつだったか、俺なんかのどこがよかったのだと、冗談混じりに涼香へ尋ねた。冗談で返されるかと思ったそれに、涼香は真剣に言葉を選んで答えた。

 どんな人でもそのまま受け入れてくれるところ。

 聞いた途端途方もなく恥ずかしくなった。そんな心の広い人間じゃない。ただ、他人への興味がなくて、どうでもいいから反発しないだけだ。

 だけど、それはまさしく自然体な自分で、そこを長所だと見てくれたことがうれしかった。

 湊たちと涼香はちがう。

 俺たち三人は、どんなに離れていても繋がっていて、きっとこの先も変わらない。

 涼香は俺とは別個のもので、繋がり続けるためには確かめ合わなければならない。その心を、温もりを――。

 途端に、熱を欲した。通路の隅で、涼香の小さな身体を引き寄せる。少し湿った布越しにでも、その温もりが伝わった。

「涼香のことが好きなんだ」

 涼香が黙ったままぎゅっとしがみついた。

 熱が伝わる。

 もっと、欲しい。

「なぁ、どっかで休んで帰ろうか……?」


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