15・板挟み
この秋は、大きな台風が立て続けに二つ通過した。台風一過後の真っ青な秋晴れに、湊はさぞかし落胆しているだろうと、少しだけ複雑な感情を覚えた。
タツ。すげぇ、気持いい。
大雨洪水警報が発令された最中、湊から電話があった。朗らかな声の後ろには、激しい雨音のメロディ。危ないから帰れと怒った俺に、風はないから大丈夫だとのたまった。それは、無鉄砲にハラハラさせられた昔の湊だった。
「あと五分で駅。うん、西口で待ってるから」
電車が遅れているという涼香と喋りながら駅へと向かっていた。吹き抜ける風は爽やかでも、歩いているとまたたく間に汗が滲んでくる。待ち合わせの西口に着き、暇つぶしに端末のブラウザを開いた。夕食はどこで食べようかと検索しながら、そういえば台風のあと湊の無事を確認していないことに気がついた。
トークアプリを起動し、湊のトークルームを開く。
台風、大丈夫だったか?
しばらく待っても、湊がメッセージを読んだ形跡がない。また水風呂にでも入っていて気づかないのだろう。
急いではいないものの、涼香と合流すれば帰宅するまでメッセージのやり取りができなくなる。気になってしまったのだから仕方がない。俺はメッセージを放置して、湊の電話番号をタップした。
何度かの呼び出し音。風呂に入っていても音は聞こえるはずだし、なんなら湊の端末は防水仕様だ。
休日だし遊びにでも行っているのかもしれない。その観測を一瞬で否定した。こんな晴れた日の昼間、湊が出かけられるはずがない。
二ヶ月前の法事で、変わらない笑顔が眩しい夏波の写真と、ぐったりと座り込んでいたおばさんの姿を思いだした。法要の直前、湊はワイシャツを水道で濡らし、その上にジャケットを羽織った。それでも、約一時間の法要が限界だったのだ。
ざわざわと胸騒ぎが俺を焦らせる。
もし、動けなくなっていたら。助けを求めていたら。
改札の上部にある電光掲示板が切り替わった。湊のところに向かう電車が入ってくる。
俺はICカードを取り出すと、改札に駆け込んだ。ホームで、車内で、電話をかけ続けた。途中、快速電車に乗り継いだところで、なぜか端末がブラックアウトした。再起動した途端、バッテリーの残量がないからと強制的に電源が切れる。家を出るまえに満タンまで充電していたはずなのに。焦燥がさらに膨れ上がり、俺は扉の前で無駄なリズムを刻んでいた。
駅に着いた途端、全力で走った。息が上がり、止まろうと思うのに、なぜか足が止まらない。口の中に血の味が広がり、全身が汗だくに濡れている。アパートに着く頃には、ヒューヒューと掠れた息が出るだけだった。
「ミナ! 湊!」
インターホンを何度も鳴らし、それでも飽き足らず奥へと叫ぶ。何事かと、隣人らしい女が小さな窓からそっと顔を覗かせた。
じりじりと太陽は相変わらず照りつけている。湊は家の中にいるはずだ。
俺は覚悟に唾を飲み込んで、背中のバッグからスペアキーを取り出した。いつだったか湊がゲームセンターで手に入れた、かわいらしい猫のキーホルダーが付けられている。
どうして俺に預けるんだと聞いても、湊はただなんとなくとだけ答え、それを押し付けた。
「こういうこと」を想定して渡したというのなら糞くらえだ。俺は乱暴に鍵をねじ込んで、ドアを開けた。
ひと目で見渡せる室内に湊の姿はない。俺は迷うことなくバスルームの扉を開けた。
「ミナ!」
浴槽の中で、縁にもたれかかるような姿勢の湊がぐったりと目を閉じていた。真っ白なシャツから透けた背中は、もはや血が流れていないように見えてしまう。汗だくの身体がみるみる冷たくなっていくような気がした。
「ミナ!」
もう一度呼びかけてその肩を揺らす。
「……タツ?」
きょとんとした湊が、眠そうな目を大きく見開いた。湊が動いたところでホッと力が抜け、途端に酸素の足りない身体が苦しくなった。
「おまえ……何回も電話したのに」
呆然とつぶやいた俺を見つめた湊が、棚に乗せていた端末を引き寄せた。
「電池切れてら」
「……んだよそれ……」
「悪い。今日は暑くてさ。水浸かってたら眠たくなった」
うっかり寝てしまったみたいだと頭をかく湊を前に、耐え切れずしゃがみこんだ。タイルの水滴が、履いたままの靴下を不快に湿らせた。
「そりゃ今日は暑いよ。俺なんか駅から走ったからほら」
前髪を上げて、汗の流れる額を見せつけた。八つ当たりだと分かっていながらも、文句をつけずにはいられない。湊もさすがに悪いと思ったのか、殊勝に肩をすくめている。
「心配かけたよな? えと、冷たいし入るか?」
湊が水面を叩きながら、身体を半分逃がした。水の中で白い布がゆらりと舞う。布と一緒にゆらゆらと揺れる湊ががあまりに気持ちよさそうで、俺は考えることなく張り付く服を脱ぎ捨てた。
「生き返る……」
肩まで浸かって、さらにはすくった水で顔を洗う。それでも物足りず、勢いよく頭まで沈み込んだ。狭い浴槽で、湊が精一杯場所を譲ってくれている。
「なぁ、タツ。もしかしてやった?」
なにを? 脈絡のない問いかけに首を傾げると、湊がどこか厭らしい顔で笑った。そこで、湊の言葉がなにを指しているのか察してしまう。透明な水に揺らめく湊が、途端に俗っぽく見えた。
「なんで分かるんだよ!」
「なんとなく? だってタツさ、今まで誘っても風呂入ってこなかったのに、サラッと脱ぐし」
そんなことで。自分でもそれが心境の変化に繋がるなんて、言われなければ気付かなかった。湊に対する男としてのコンプレックスが、肌を出すことを拒否していたのだ。
そういう湊は、今日は服も脱いでいない。服を着たままの湊と浴槽をシェアする自分は全裸だ。
「ミナはなんで服のままなんだよ?」
「なんか、水に浸かりたいって思ったら我慢できなくなった」
服を脱ぐ間も惜しかったのだと湊が頭をかいている。そんなにも切羽詰っていたのかと知らず知らず眉間に力の入った俺とは逆に、湊は楽しくて仕方がないと顔をほころばせた。
「なぁなぁ、彼女?」
「そうだよ……ああ!」
「なに? どうした?」
叫んで頭を抱えた俺に、湊がおろおろと手を添える。それは一瞬びくりと震えるほどに、冷たい指先だった。
「約束、やぶった……連絡、ダメだ。充電切れてる……!」
「充電器貸してやるから」
「ミナのとは機種違うから無理」
端末に登録できるからと電話番号も覚えてなんかいない。今すぐ帰ったところで約束の時間は、もう何時間も過ぎてしまっている。
湊に連絡がつかない。その事実はいともあっさり涼香の存在をかき消してしまった。
「……明日謝る」
「いいのかよ。それで」
「どうしようもないし」
もし、こうなることがわかっていても、俺はきっと湊のところへ走っただろう。大切な幼馴染なのだ。
「そういうところ、タツってドライだよな」
「ミナに言われたくないよ」
当然の反論に、湊は悪びれもせずそれもそうだなと納得した。
「なぁ、どうだった? セックス」
からかうつもりなのかと睨みかけた先は、なぜか穏やかな湊の顔で、うっかり毒気を抜かれた。
「……熱かったよ。頭ん中、変になるかと思った」
湊がうれしそうに笑う。
「いいなぁ……」
湊の白い手が俺の膝に触れた。それは、水と同じ温度で、触れられているのかどうか、実際目にしていてもどこか現実味がなかった。
「もう、乾いてるとさ……触れないんだ」
俯いた湊が寂しそうに呟いた。ぎゅっと心臓を握られたような錯覚が起きた。
湊の人魚熱は徐々に進行している。これからもっと体温が下がっていつか……。
「水の中なら?」
俺は湊の手を握り返した。
「それなら平気」
タツ。触らせて。
そんな声が聞こえたかどうか、聞き返す間もなく湊が俺を覆った。狭い浴槽で無理矢理に身体をくっつけて、その熱を確かめている。
濡れた服の湊は少しだけ震えていた。
「ミナ……」
「俺さ、生きてるよな? こんなにも冷たくて……」
「当たり前だ。死んでたら動けないだろ?」
押さえつけられた手をなんとか取り出して、湊の背を抱き返す。湊が火傷をしてしまわないように、必死で浴槽に沈み込んだまま。
水の中で触れた湊の肌は、服越しのせいか少しだけ水よりも温かい気がした。それだけで、泣きそうなほど安堵した。
「触りてぇ……」
湊が悔しそうに唸る。俺は涼香と重なり合った肌のあいだに生まれた熱を思い出した。湊はもう、あの熱を感じることができない。
「俺の体温でよかったら、やるから……」
湊がこくりと頷いた。
体調のよくない幼馴染が電話に出なくて。なんとか嘘にならない理由で謝ったとき、涼香は怒りながらも分かったと許してくれた。ただ、せめて連絡をしてくれないと心配するから。そうやって目を伏せた涼香に、連絡がつかなくて焦った自分を重ねた。
「本当にごめん」
深く頭を下げた俺に、やっと涼香が笑う。
そういうことだからと、週末ごとに湊のところに行く俺を、涼香はすんなりと送り出してくれていた。少なくとも、俺はそう思っていた。
ミナは大丈夫ですか?
日曜日、久しぶりに涼花と過ごす夜、悠一郎から電話があった。それも、日中なんどかかけたのに繋がらなかった電話の返信で、悠一郎が人一倍忙しくしていることが分かる。
「あ、うん。涼しい日は多少マシみたいだけど」
水風呂に入っていることが多い。そう伝えれば、悠一郎は黙り込んで、とってつけたように「それでミナが楽なら」と呟いた。
電話越しに沈黙が流れる。お互いもどかしくて仕方がないのだ。湊を助けたいのに、その術が見つからない。見つけるための糸口さえどこにあるか分からないのだ。
今日も行ってたんですか?
「いや、今日は彼女と約束があったから」
そう、久しぶりのデートだった。彼女……電話口の悠一郎が繰り返した。そういえば、悠一郎には彼女がいることを伝えていなかったことを、そこで思い出した。
「六月から付き合ってるんだ」
そう報告すると、小さなため息が返された。
タツは呑気ですね。
心外だ。いつだって湊の病気に心を砕いてきたのに。休みのたびに訪ねて、触れ合って、湊が少しでも安心できるように努めているのは俺じゃないか。
悠一郎こそ、ただ電話で非難するだけのくせに。思わず口に出そうになった反論を、寸でのところで飲み込んだ。
すみません。俺の心が読めたわけでもないだろうに、悠一郎が震える声で謝った。頭のいい悠一郎こそ、自分の無力に苛まれているのかもしれない。
こんなにも必死になっているのに、報われることもない。報われるとはどういう結果を求めているのだろう。湊が治ることがそれに当たるのか。だけど、それは全く現実的じゃない。湊が覚悟を決めて検査を受けて、それは果たして湊が望むことなのか。
それとも、湊が――。
まただ。心臓が握りつぶされるような苦しさ。湊がいなくなってしまう可能性を必死で脳裏から追い出した。
成人式には帰るので。
電話を切る間際の悠一郎に、まだ二ヶ月以上先だとなんとか笑い飛ばした。笑えばちょっとは心が軽くなる気がしたのだ。
「ねぇ。今のって達志君がいつも言ってる幼馴染の人?」
大人しく待っていた涼香が遠慮がちに尋ねてきた。持参の部屋着は、そのままジムにでも行けそうなスポーティなものだった。
「そう。今のはK大に行ってるほう。家が病院なんだ」
「すごいね。頭いいんだ」
「昔から勉強がんばってたし。俺らは全然だけど」
「もうひとりの子のこと。心配してたね」
「ミナ? うん、しばらく体調悪いから」
涼香はどこか心あらずといった風で、俺を見上げた。そして、迷いながら口を開く。
「なんで達志君がいつも行くの? 親とかは?」
当然の疑問に、俺は言葉に詰まった。詰まったことが涼香の堰を壊してしまう。
「体調が悪いなら普通実家に戻るんじゃない? F大なら通ってる子もいるよ?」
そのほうが安心じゃないの。当然する指摘は俺の逃げ場をどんどん奪っていく。湊は帰れない。今となっては、病気のことを打ち明けない限り、実家には戻れないのだ。
「ちっちゃいころから一緒で心配なのは当たり前だけど、私はそこに入れないから寂しいよ」
幼馴染の絆があまりにも強すぎて不自然だと涼香が呟いた。そうなのかも知れない。俺たちは、俺たちだけの秘密を共有して過ごしてきた。
「私のこと邪魔?」
そんなことない。慌てて否定したものの、涼香が望む答えを返すことができなかった。
涼香と湊が秤の両端に乗っている。そして、その秤は迷うことなく湊の側が重いのだ。湊が助けを呼んだのなら、きっと何を置いてでも駆けつけてしまうだろう。
そんな自分は涼香と付き合うことなんかできないのじゃないか。
いっそ、湊の病気を知らせてしまおうか。涼香なら馬鹿にしたり誰彼構わずしゃべったりはしないだろう。
甘い誘惑に唾を飲み込んだ。
「涼香……あのさ」
泣きそうな涼香の目が俺を捕らえる。湊の病気は――。
「ごめん……鈍くて俺。もっとちゃんと考えるから」
湊は俺たち以外に知られることを望まない。
罪悪感に塗れた侘びを、涼香は落胆した顔で受け入れた。