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人魚熱  作者: 三一
13/19

13・水風呂

「ああ。今から出るよ」

 三連休の初日、電話越しの悠一郎が、心配そうにため息をついている。悠一郎の母も、湊の母から相談を受けたらしい。その相談とやらは、俺の母が受けたものとも同じで、多分俺と悠一郎は同じ懸念を湊に抱いている。

「全然帰ってないっていうのは知ってたけど……」

 電話にもほとんど出ないって言ってましたよ。悠一郎が付け加えた。

 そうは言っても、俺からの連絡にはきちんと返事がある。悠一郎からのも同じらしい。そのほかの交流はすでに知りようもなく、それでも今までの湊であればそつなくこなしているような気がしていた。

 前回会ったのは、涼香と付き合う少し前で、二ヶ月と珍しく期間が空いていた。そう、湊が俺の家に来ることはもうない。

 梅雨明け間近の太陽はじりじりと容赦なく照りつけ、さらには不快な湿気をも含んでいる。数日前から、早くも合唱の練習だとばかりに蝉たちが競って鳴き始めた。

 乗り換えのために大学最寄りの駅を降り、向かいのホームに移ったところで、快速電車が滑り込んできた。

「とにかく、様子見てくるよ」

 そう言って電話を切った。

 快速電車に一時間ほど揺られると、湊のアパートを通り過ぎた駅で停まる。ひと駅戻る各駅停車に乗り換えてもいいのだが、俺はその微妙な距離を歩くことにしていた。

 駅前の商店街を歩けば、店内から漏れた冷房が暑さを和らげる。それでも、住宅街の坂を上って湊の住むアパートに着くころには、汗が背中をすっかり濡らしていた。

「ミナ!」

 奥から、鍵は開けているからと無用心極まりない返事がきた。遠慮なくその玄関を入り、見渡したワンルームに、湊の姿は見当たらない。

「どこにいるんだ?」

「こっち」

 声の方へ引き戸を開けると、風呂場のすりガラスに黒い影が揺れていた。

「何してんだよ」

「だって、今日すげぇ暑いじゃん……」

 すりガラスを開けると、湊が浴槽の中で寛いでいた。その浴槽は、当然のように満杯の水だ。

「気持ちよさそうだな」

「タツも入るか?」

「入るわけないだろ」

 室内はエアコンが緩くかかっている。もっと冷やせばいいんじゃないかと尋ねれば、強ければ今度は乾燥して辛いんだと返ってきた。

 湊は俺たちにはなにも隠さない。

「おばさん、心配してるらしいぞ」

「やっぱり?」

 ろくに拭きもしない身体にハーフパンツだけを履いた湊が、ミネラルウォーターのペットボトルを持って座り込んだ。

「やっぱり、って……」

「用件はあれ……ばあちゃんの三周忌だから」

「それ、無視してたらダメだろ」

「今年、暑いだろ?」

 今年はすでに、観測史上初だと真夏日が更新されている。湊がなにを言いたいのか察しきれず首を傾げた俺に、湊は困った顔で笑った。

「昼間は結構キツいんだ。こうやってペットボトルに水入れて持ち歩いて……」

 冷やした一本と凍らせた一本、それにフェイスタオルを持って出るのだという。

「ミナ、前より酷くなってないか?」

 湊は答えなかった。ただ、汗ばんだ俺の手を握って、熱いなと呟いた。

「なんで、おばさんに言わないんだ?」

 小さいころから知っている湊の母は、決して悪いようにするような人じゃない。

「知られたら病院行かされるじゃん」

「行ったほうが……」

 手を握っていた湊が、倒れこむように俺に抱きついた。せっかく冷やした身体がまた熱くなってしまうだろうに。

「まだ、なんとかなってんだ。バイトは夜だし、厨房で水触れるし。大学も構内はエアコン入ってるから、水持ってたら大丈夫」

 そんなことを言って、もっと酷くなったら。水から出られなくなってしまえば、もう隠しておくことはできない。

「そうなったら諦める。けど、まだ俺は普通でいられるんだよ……俺は――」

 それが終わることが怖い。

 その声は消え入りそうなほどに小さかった。

 湊はいつだって俺たちの前を走っていて、ジャングルジムの天辺から飛び降りるのも、お化け屋敷に入るのもいちばん先だった。怖いものなんてないような湊は、小さいころの俺たちにとってヒーローだった。

 暑い。湊がすっと離れていった。全身の重りが外れた俺は、咄嗟に湊を捕まえた。そうしなければ、どこか遠くへ消えてしまいそうな気がしたのだ。

「タツ。あちーよ」

「悪い……」

 湊は冷たかった。直接陽に当たらないように、長袖で生活をしているからか、病的なまでに白い肌も、消えてしまいそうなほどに透き通っている。生きているのかどうか、急に不安になった。

「早く冬にならねぇかなぁ……」

 太陽の活動が弱くなれば湊は元気になれる。だけど、それですら昨年の冬は耐え切れず、時折水を張った浴槽に沈んでいた。まだ普通でいられる。湊の言葉がどこか白々しく感じた。

「ちゃんと家に連絡しろってユッチに怒られた」

「当たり前だろ。ちゃんとしろよ」

「タツもかよ……」

 げんなりと肩を落としながらも、ため息をつきつつ携帯端末を引き寄せた。憂鬱を顔全体に広げた湊が、ディスプレイを耳に当てる。ちょっとレポートが間に合いそうにないんだ。だから帰れない。いっそ不気味なほどに明るい声が、母親へと向けられている。

 俺からの視線に気付いたのか、白く整った顔が軽く苦笑いを浮かべた。

「おかんも行けないんだって。息子をあてにするなよな」

 それと。湊の声がワントーン低くなった。

「来週、夏波の七回忌だってさ」

 それは不意打ちみたいに、俺の呼吸を妨害した。しんとしたワンルームに、どこからか蝉の声が忍び込んでいる。そう、あの夏の日と同じように。

 二十歳になるからと、少し前に母が礼服を誂えてくれた。自宅のクローゼットに仕舞われたそれを、さっそく引っ張り出すことになってしまう。そうだ、悠一郎にも教えてやらなければならない。

「なぁ。タツ……夏波が死んだのってだれのせいだと思う?」

 一瞬、息の仕方を忘れてしまった。間抜けな石像みたいに固まった俺を見向きもせず、湊が言葉を続けた。

「一、長い時間お湯を出しっぱなしで給湯器に負担かけたやつのせい。二、身体が冷えるからって追い焚きボタンを押したやつのせい。三、しんどいって言ってたのに真面目に聞かなかった……」

「ミナ!」

 やめろよ。制止の声は情けないほどにか細かった。湊がやっと顔を上げてこちらを振り返った。そこには、どんな感情も読み取ることができない。

「……だれのせいでもない」

「うそつけ」

 白々しい慰めを、湊があっさりと切り捨てた。俺はそれ以上なにも言えなくなった。

「もう一回、浸かってくる」

 湊がバスルームへと消えた。

 湊のベッドに俺が寝て、本来の持ち主はフローリングに大の字で転がっている。布団なんか久しく使っていないそうだ。気持ちよさそうな寝息が耳について、俺は朝まで眠ることができなかった。


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