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人魚熱  作者: 三一
12/19

12・それぞれの道

 そして、悠一郎は宣言していた通り、K大の医学部に合格した。県をまたぐため、必然的に一人暮らしになる悠一郎は、住居には拘らないと築年数の古い寮に入寮している。湊はF大に合格し、どうやって説得したのか、大学にほど近いアパートに住まいを移した。

 俺は、結局自宅からいちばん近いという理由だけでJ大に進み、三人それぞれの大学生活が始まった。

 思えば、高校進学が決まったとき、悠一郎が別の道に進んだことで、それまで一緒だった三人が二人になった。そして今、二人は一人になり、三人別々の場所に立っている。

 三、二、一。これ以上、減ることのない単位に、限りない孤独を感じた。

 湊のアパートは大学の近くにしては、中途半端に外れていた。F大までは、俺の最寄駅から電車で二時間。湊のアパートまでは一時間半。そして、俺が通うJ大までが四〇分。最長距離だと遠いが、そこに至るまでは点々と中継地点が有り、細い線で繋がっているようになっている。

 事情を知らない、話せない家族と距離を置きたい気持ちと、事情を知る幼馴染とは離れきれない葛藤。湊のなかには、そんな思いが多少なりともあったんじゃないだろうか。

 俺はひと月に二度か三度、湊と会っていた。一人暮らしになった湊は、生来の雑さ所以か少々痩せたものの、二回生になった今も、特段変わったふうには見えなかった。

「達志君、来週の連休って予定ある?」

 涼香(すずか)と、お互いのバイト帰りを待ち合わせて駅までを一緒に歩く。本当は自転車で来ていたが、一緒に帰れるかとメッセージがきた時点で、大学近くの友人宅へ預けることを決めた。

「十四と十五日は友だちのとこに行くけど」

「あ、幼馴染の子?」

「そう。近いのにあんまり実家に帰ってないみたいで、家族も心配してるんだよな」

「あー分かる。お母さんとか、帰っておいでっていうのも過保護みたいで言えないんだよ」

「そうなのか?」

「うちはね。お姉ちゃんのときがそうだった」

「涼香のお姉ちゃんっていくつだっけ?」

「今二十五。あと二十二のお姉ちゃんもいるけど、そっちはすっごい真面目」

 三人姉妹なんだと笑った涼香を見て、その二人のいいとこ取りをしたのが末っ子なのかと思った。

 藤崎涼香は同じJ大の二回生だ。やや幼い風貌は、制服を着てしまえばまるっきり高校生で、本人はそれを少しだけ気にしていた。裾の揺れる服装は苦手なんだと、通学は専らジーンズで、その見た目から想像したとおりくるくるとマメに動く。

 そしてちょうど先月、梅雨入りが宣言された日に付き合い始めた。初めての恋人だった。

 夜十時を前にした電車は座席も空きがあるほどで、なのに俺たちは扉付近に二人で立っていた。涼香の家は、俺よりも二駅向こうだ。

 停車駅のアナウンスが流れる。次が俺の降車駅だった。俺は周りからは見えないように、そっと涼香の手を握った。その手がすぐに握り返されたことに安堵する。

「雨だ」

 ガラス越しの水滴を涼香が指さした。昼前に雨が上がっていたせいで、傘を大学に忘れてきてしまった。そう小さな肩を落としている。水滴はみるみる大きくなって、夜の景色を滲ませた。

 涼香の家が、駅から自転車を漕いで二〇分かかることを知っている。雨足はどんどん強くなっていた。

「ねぇ。小降りになるまで、ちょっと時間つぶすの付き合ってくれる?」

 次で一回降りるから。涼香の提案に、迷うことなく飛びついた。ホームの向こう側は、バケツを返したようなどしゃぶりで、傘を手にした人でさえ一歩を踏み出すことを躊躇っている。

 ホームの隅にあるベンチに並んで腰をかけた。電車の本数はそう多くない。快速電車が通り過ぎ、また少し静かになった。

「雨、このままだったら荷物預かってくれないかな。私だけなら濡れて帰るんだけど、今週中に提出するレポートが入ってるの」

「いいよ。明日持ってく」

 ありがとうと笑う涼香の横顔に、俺はもうひとつの提案を迷っていた。駅から俺の家までは歩いて一〇分ほどだ。もう少し雨が弱くなれば傘を一本買うだけで帰ることができる。

 うちに来る? 付き合いだしてまだ二ヶ月目。その誘いをかけてもいいものか、考えあぐねていた。

「止まないね」

 十一時台最初の電車が走り去り、平日のホームはどんどん寂しくなっていく。雨は少しだけ勢いを緩めた。

「ねぇ。達志君」

 いつも通りの口調に振り向くと、僅かに腰を浮かせた涼香が、視線の位置を俺と合わせていた。あまりにも近い距離に情けなくも息を飲んでしまう。化粧けのない頬は、思わず触れたくなるような艶やかさだ。

 視界いっぱいに涼香の顔が拡がり、そして冷たく柔らかな感触が口角に触れた。

 涼香は驚いた俺に向かって小さく笑うと、またベンチに座って少し俯いた。

「……びっくりした」

「ふふ。だれも前にいなかったから」

 今さら恥ずかしくなったのか、涼香の顔はほんのりと赤く染まっている。

「こういうの嫌い?」

「嫌いじゃないよ。していいなら俺もしたい」

 正直に白状すれば、涼香の顔は茹でられた蟹のように一気に真っ赤になった。

「昔、読んだマンガであったの……彼氏できたらやってみたかったから」

 ぼそぼそと不要な言い訳をするころには、もう耳までが赤い。まだ、だれともしたことがなかったのだ。

「雨……止まないし、うちに来る?」

 女の子からキスされたら、触れてもいいんだ。いつかの湊の声が聞こえたような気がした。

 真っ赤な顔の涼香が俺を見上げ、そしてゆっくりと頷いた。

「シャワー使っておいでよ」

 一本の傘に無理やり入ったせいで、二人とも身体半分がびしょ濡れだった。買ったもののサイズが合わずに詰め込んでいたTシャツと、これなら丈が長くても大丈夫だろうとハーフサイズのジャージを手渡した。

 自宅に電話をかける涼香は、当然のように友人宅に泊まるのだと説明をしている。あっさりと電話を切ったあと、普段ある程度ちゃんとしてたら許して貰いやすいんだと笑った。それぞれの姉を見ていて学習したのだろう。

 その周到さといっていいものか、事前準備の抜かりなさに、崎山が手紙のほうが印象に残りやすいからだと言った作戦を思い出してしまった。それは性質に限らず、女であれば当たり前に備えられた思考なのだろうか。

 悠一郎は驚く程先を見ているが、それはあくまでも自分自身の目標であって、人間関係においてはむしろドライだ。その点では、湊がいちばん相手の思考を読んでいたと言えるものの、結局はすぐに振られていたことから相手に通じていたとは思えない。

 俺に至っては、そもそも考えるための材料すら持ち合わせていない。今この瞬間でさえ行き当たりばったりなのだ。

「一人暮らし、じゃないよね?」

 順番にシャワーを済ませたあと、リビングのソファでコーヒーを飲んだ。涼香が遠慮がちにあたりを見渡している。

 母は出張だからといつもどおりに答えたつもりだった。自分にとっては当たり前のことで、いつもここに来る湊や悠一郎だって当然気にもしない。だから、その一言で一気に緊張した涼香を見て、やっと失言に気づいた。

 家族の留守に連れ込んだという事実は、付き合っている男女であれば違う想像をするだろう。もちろん、期待はあった。けれど、それを実行に移す勇気は、実のところまだ持ちあわせていなかったのだ。

「布団持ってくるから待ってて」

 湊たちが泊まるとき用に、薄手の客用布団がある。リビングのソファだとしても、小柄な涼香なら大丈夫だろう。

 立ちあがった俺を引き止める力がかかった。

「……達志君の部屋で寝てもいい……?」

 俯いたままの涼香の声はやや掠れていて、彼女が勇気を出したことを如実に物語っていた。

 見慣れた自室が一気に別世界へつながってしまったようだ。

 いつもは湊がくつろいでいるベッドに涼香が身を横たえている。俺は、体内から今にも逃げ出しそうな心臓を必死に飲み込んで、その肌に触れた。

 押しつぶさないようにそっと重なった身体は、驚くほどに柔らかく、触れた手を包み込んで押し返す。

 それから、熱――。

 熱くて、頭がどうにかなってしまいそうだ。

 キスで繋がりあった口内は、生温かく甘い。

 熱くて触れ合っていられないのだと湊が嘆いていた。俺は、繋がっても繋がってもまだ満ち足りない。もっと、もっととその熱を求めている。

 いや、湊はだって熱を求めているのだ。だけど、湊の肉体はそれを許さない。だから、湊は俺に触れる。少しでも、その熱を覚えていられるように。

 涼香が必死に俺にしがみついていた。脳は電気を通されたように痺れて、まともに考えることもできない。

 質の悪い薬みたいだ。

 一度覚えてしまえば、止めることができなくなる。これが、熱にうかされるということ――。


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