11・家族
「あれぇ。飯田君じゃん」
バイト帰り、閉店間際のスーパーになんとか滑り込むことができた。数日無精をしたせいで、今日食材を仕入れなければ、明日の食事は恐ろしく情けないものになってしまう。がらがらに隙間の空いた陳列棚から、カゴへと生鮮食品を適当に放り込む。
朝のパンを入れ忘れたと戻った先で、思わぬ声が掛かった。
「崎山」
デートでもしてきたのか、いつも以上にまつ毛の増えたクラスメイトが、元気に手を振った。
「どうしたの? おつかいとか?」
無遠慮にカゴを覗き込んだ崎山が、男子高校生が買うには不自然な品々に首を傾げた。説明するのも面倒で、そうなんだと雑に頷いておく。
「えらいねぇ」
「なんだそれ。崎山は遊び帰り?」
「友達とライブ行ってたの。もうちょっといたかったけど十時までには帰れって言われてるから……」
放任ぎりぎりの自由を、不自由だと嘆きつつ言いつけを守っている崎山も、根は結構真面目なんだと意外に思った。
「ねぇ。飯田君トークやってる? ID教えてよ」
「なんで?」
「暇なときしゃべろう」
軽やかに笑う崎山は、断られるなんてきっと思ってもいない。もちろん、断る理由もないし、連絡先を交換することに抵抗があるわけでもない。だけど、いざ繋がったとしても、なにを送ればいいのか見当もつかなかった。
閉店を告げるアナウンスに、慌ててレジを済ませると、並んでスーパーを後にした。入口の隅で互いの端末を向かい合わせる。トークアプリの通知が光って、湊からのメッセージがあることを知らせている。すでに端末をスタンバイ状態にした崎山を見た俺は、あとで返信しようと、通知をそのまま残した。
可愛らしい封筒のマークが、二つの端末を行き来する。
「タツって?」
「名前が達志」
「飯田君って達志って名前だったんだ。あたしもタツって呼んでいい?」
「別に……好きにしたら?」
交換した崎山のプロフィールには「まい」とひらがなで登録がされていた。俺は、彼女が崎山麻衣という名前だと知っていた。
なにがうれしいのか、満面の笑みで呼び名を変えることを宣言した崎山が、軒下から手を伸ばして小さくぼやいた。
「うわぁ。雨だ」
駐車場の明かりに照らされた霧雨が、きらきらと光っている。
「使う?」
リュックから取り出した折りたたみ傘を手渡した。
「俺、家すぐだから」
「ありがと。ってやば……!」
端末の時計を確認した崎山が、また明日と慌ただしく駆け出した。
雨は、傘があってもささない程度の弱さで、俺は荷物を持ち直すと柔らかな霧雨のなかを歩き出した。
幹線道路の交差点を渡ったあたりから、雨が強くなり始めた。アスファルトが黒光りに反射する。心持ち足を早めた俺をヘッドライトがいくつも追い越していった。額に張り付く前髪が、ちくちくと微妙なリズムで目をつつく。何台目か、追い越した光が俺の少し前で停まった。
「おかえり」
タクシーから、スーツ姿の母が降りてきた。
「達志、傘は?」
言いながらも、スーパーの袋をひとつ奪い取り、無理やり傘を差しかけられる。母親と相合傘なんてごめんだと小走りに進めば、後ろから楽しげな笑いが漏れ聞こえた。出張だった母とは三日ぶりに顔を合わせたことになる。
「明日は夕飯いるのか?」
「いる。有給だから、昼もなんかある?」
「適当に買ってきてるから、自分で作れよ」
「えぇ……めんどくさい」
「納豆、ウィンナー、サラダ。米くらい炊けるだろ」
今となっては、母が在宅だろうと食事番は俺だ。やらされているわけではないが、慣れない母の手際を見ていると、どうにもまだるっこしくて手を出してしまう。美味いと褒められるのは悪い気分じゃない。
「了解」
いつの間にかまた並んでいたが、離れようとする前に着いてしまった。鍵を探しているのか、片手をショルダーバッグにつっこんだ母が、小さく声をあげる。
「湊じゃないの」
視線の先、植え込みの石段に、見慣れた姿が座っていた。
「ちょっと、あんた。びしょ濡れじゃない! せめて屋根の下で待ちなさいよ」
「なんとなく濡れたい気分だったんだよ」
「馬鹿じゃないの? それより、久しぶりね。また男前になった? もういっそアイドルとかになれるんじゃない?」
幼馴染の母からからかわれた湊は、戸惑いもせず悠々とネタにされている。
「タオルあげるから寄って」
「いいよ。コンビニついでにゲーム返しにきただけだし」
大きめパーカーのフードをかぶった湊は、張り付いた前髪から雫を滴らせている。見ているだけで寒いと母が震えてみせた。
パーカーのポケットから取り出された袋を受け取った。小さなゲームソフトは、台所で使うチャック付きの袋に大事に仕舞われている。
湊が家をでるときにはもう雨が降っていたのだ。そして、本題だったはずのコンビニの袋は見当たらない。コンビニは取って付けた言い訳で、きっと目的は俺だったのだ。トークアプリの通知には、これから行ってもいいかとメッセージが入っていたに違いない。
「ミナ。寄ってけよ」
「いい」
じゃあな。軽く手を上げた湊が帰っていく。濡れ鼠の後ろ姿がだんだん小さくなって、曲がり角に消えた。メッセージを後回しにせず、見ておけばよかった。後悔がチクリと胸を刺す。
「なんか、あの子雰囲気変わったね」
「そうかな?」
「うん。やんちゃ坊主って感じだったのに、儚い美少年って感じになってる」
「美少年……」
「湊、モテるんじゃない?」
「まぁ」
キッチンに入った母が、袋の中身を冷蔵庫へと放り込んでいく。そのついでに缶ビールを取り出すと、テーブルまでも待たずにプルタブを開けた。
「あと三年したら一緒に飲めるね」
ビールを一気に半分ほど飲んだ母が笑いかけた。
「来月は決算であんまり帰れないと思うから、今のうちに聞いておきたいんだけど」
「なに?」
「達志の進路。息子のスポンサーとしては、そろそろ心と、先立つものの準備しなきゃいけないころかと思ってね」
いたずらっぽく笑う母に、嫌な顔で応えてから考え込んだ。考えていないわけじゃなかったけれど、決めてはいなかった。
「とりあえず、私立の医学部に行きたいとかじゃない限りは大丈夫よ」
「行けるわけないだろ……」
笑い転げる母は、歳よりもずっと若く見える。そもそも、子どもの頃からあまり変わっているようにも見えない。
「悠一郎はK大医学部?」
「そう言ってた」
「湊は?」
「F大だって」
「湊ももう決めてるの?」
暗に、おまえだけがまだなのかと責められているような気分になった。
「けど、F大って微妙に遠くない?」
いっそ、自宅通学が楽な範囲にすればいいのに。首を傾げる母には、あえてなにも答えなかった。そして、そのことから、息子が家を出ることは選択肢に入っていないらしいと予想した。それは当然で、通えるか通えないかの距離であれば、経済的負担からも通うほうを選ぶだろう。
俺はまだ、迷っている。
そう、湊と同じところか、違うところか。
高校受験のときは、俺を追いかけるように湊が郡一高を受験した。
「佳織さんも心配するし、近くにしたらいいのにねぇ」
佳織というのは湊の母で、そこに悠一郎の母も加わって、母同士のコミュニティが存在する。
「ほら、湊ってば最近ちょっとお年頃な感じだし、母親としてはいろいろと心配するじゃない?」
お年頃と、あえてぼかされた表現にげんなりとした。湊からはあまり家族の話を聞くことがない。だから勝手に、湊の家もうちと変わらない程度の放任だと思っていたのだ。
「おばさん、心配してんの?」
「そりゃあね。夏波ちゃんがいなくなっての一人息子だし。どうも、女の子と仲いいみたいだし」
女の子と付き合っていることには気づいても、なぜそうしているのかは考えもしないのだろうな。心に浮かんだのは厭らしい優越感だった。親だって知らない湊を、俺は知っている。
「間違いがあったら大変って……ね」
「ミナは大丈夫だよ」
なにせ、もう女の子とは付き合うことを止めている。母は疑わしそうな顔で、そうなのねと無理矢理に納得をする振りをした。
「達志は大丈夫なの?」
「なにがだよ」
「……あんたも、落ち着いてるように見えて、結構流されやすいから」
母からの思わぬ追求に呆然とした。流されるもなにも、彼女もいないのに。母は息子を買い被りすぎているか、もしくは可能性のひとつに釘を刺したのかどちらだろうか。
「そういうとこ、父親にそっくりだから……」
「え……?」
それ以上言葉の出ない息子を、ビールを飲み終えた母が照れくさそうに見上げた。父親だった男のことを話題にしたのは、思い出す限り一度だってなかった。
「聞きたい?」
「そんなの、急に言われても……」
小さい頃、お約束だとばかりに聞いたことはあった。
どうしてうちにはお父さんがいないの?
しかし、そのときの母がなんて答えたのか、どれほど考えても思い出せなかった。ただ、父親はいない、母は結婚をしなかった。それだけを理解した。
「まぁ、今さらどうでもいいわよね」
苦笑いで肩をすくめた母は、その話題を振ったことに、少し後悔したようだった。
「一夜の過ち?」
「なにその言葉のチョイスは」
「できちゃった婚って言おうと思ったけど、そういや結婚してないって聞いてたし」
昨日まで全く気にもしていなかったくせに、教えてもらえると思うと急に知りたくなった。だからといって、会いたいとかそういう懐古感があるわけでもない。ただ、自分のルーツの中で欠けた部分を埋めてみたい、その程度の興味だった。
「過ち、ではないかな。むしろ、私の作戦」
「はぁ?」
「好きな男がいたんだけど、振られたのよ。それが達志の父親」
「待てって。意味わかんないんだけど?」
「こういうの、息子に知られるのも微妙なんだけど、振られたあとに一度でいいからって泣いて頼んだの。そうすればあいつが断れないって知ってたから。ホント、甘くて流されやすいのよ」
「答えになってないって」
俺の父親だという男は、振った相手と、つまりは一度だけ寝たのだ。断るはずが、流されて断ることができずに。
「……もしかして、不倫……」
妻子ある男だったとすれば、理由が明確だ。恐る恐る口にした俺を、まじまじと見たあとで母は一気に吹き出した。違う違うと、涙目で否定をする。その反応に、少しホッとした。
「その人は、俺のこと知ってる?」
「知らないわよ」
やはりそうかという思いと、僅かな落胆が同時に訪れた。
「もともと言うつもりもなかったし、それに――」
そこで言葉を切った母は、真っ暗な窓の方へと視線を逃がした。
「達志が生まれる前に死んじゃったから」
窓を向いた母の表情は見ることができなかった。
「病気だったのよね」
「それが、母さんを振った理由?」
「馬鹿でしょ? 女のほうから好きだって言ってんだから、死ぬまでくらい一緒にいてくれたらよかったのに」
母は振り向かない。いつもどおりの軽快な口調がやけに歪で、落ち着かなくなった。
「そんなに好きだった?」
「どうかなぁ……今考えたらよく分からないのよ。ただ、あのときは何としてでもあいつの体温を感じたかったの」
体温という生々しい響きに、湊を思い出した。体温を確かめたい。俺に触れるとき、湊はいつだってそう言い訳をする。
だれかの、もしくは自分の終わりに気づいたとき、人は温度を求めるのだろうか。
「体温、どうだった?」
「聞かないでよ、そこは」
だって、それがいちばん重要じゃないか。
湊が、だれの終わりを見ているのか。
「……熱かった……」
甘くて、熱くて……生きていることを実感する。湊は、俺に触れることで、自分が生きているのだと確かめているのだろうか。
「なぁ、そのスポンサーの予算には、塾代も含まれてんの?」
「もちろん。高校入ってから行ってない分、予算は余ってるわよ」
「ありがと」
大草原のなかに、また獣道のような隙間が現れた。