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人魚熱  作者: 三一
10/19

10・ふたつめの分岐

 夏休みを半分ほど終えた八月、田子のおばさん宅へ数日行っていたはずの湊は、相変わらず白い肌をしていた。

「ばあちゃんがまた一時帰宅してたから、一緒に朝一の海へ行ってきた」

 俺のベッドに寝転がって、行儀悪くペットボトルのジュースを飲みながら湊が報告を始めた。相変わらず茶色く脱色した髪の毛を、ビビットカラーのヘアピンで留めている。

「あと、夕方も。そしたらさ、ばあちゃんが変な話するんだよ」

「変な話?」

 有り体に言えば呆け始めているばあちゃんが、一体なにを話したんだと、ほとんど義務感で問い返した。

「それが笑えるんだ。なんとさ、ばあちゃんは人魚の血を引いてるんだって。八〇歳の人魚だぜ? 笑えるだろ?」

「ばあちゃんが人魚なら、ミナは人魚のクオーターか?」

 呆れたように突っ込むと、湊は人魚人魚とベッドで笑い転げた。

「しかもさ、それ、みんなに言ってるらしくって、ホームの人もばあちゃんに「ひとりで海に帰っちゃダメですよー」なんて言ってんだよ」

 女っぽく口真似をした湊がまた笑う。

「あ、でも……」

 湊が急に真顔で俺を見た。その顔は、うっかり忘れ物を思い出した、そんな程度の緊張感しかなかった。

「ばあちゃんは熱くなかった……手繋いでも全然、ずっと繋いでいられる」

 そう言って湊は、また俺の手を握った。ひんやりとした手指が、汗ばんだ俺の手に絡む。

「タツ。おまえ、熱すぎ」

 うるさい。顔をしかめた湊から手を取り戻して睨んだ。

 お邪魔します。悠一郎の声と同時に玄関の開く音がした。汗だくで入ってきた悠一郎は、エアコンの風が一番当たる場所に座り込み、コンビニの袋から出したスポーツ飲料を一気に飲んだ。

 久しぶりに三人で揃うと、湊の肌の白さが際立つ。悠一郎も俺も、特別スポーツをしているわけじゃない。それでも、この夏日の下を歩くだけでそれなりに日に焼けている。湊は、美白に全力で取り組む女子よりさらに白かった。むしろ、白というよりも半透明というほうがしっくりくるほどに、皮膚が澄んでいた。

「ミナは、なんか不健康ですね」

 歯に衣着せない物言いの悠一郎が、湊の腕を指さした。

「なんか陽に当たりすぎるとしんどいんだよなぁ」

 湊が窓の外を見ながらぼやいた。

 俺と悠一郎はどちらからともなく目配せを交わす。よくしんどいって言っている。夏のあの日、湊が妹のことをそう言っていた。

「ミナ。僕もタツから聞きました」

 ぎょっとして振り向いた俺を、悠一郎は無視した。

「勝手にしゃべったとタツが気にしてましたけど、一向に進展がないようだったので、悪いけど僕なりに考えてみたんです」

 ベッドから起き上がった湊が、少し硬くした表情であぐらを組んだ。

「父さんにも聞いてみました。もちろんミナのことだとは言っていません」

「……本橋先生は、なんて?」

 黙り込んだ湊の代わりに尋ねた。湊の顔は、さっきよりも更にもう一段白くなったような気がした。

「そんな症例は聞いたことがない、と」

 ミナ――。

 悠一郎が、湊に向かって姿勢を正した。

「精密検査を受けてください。うちの病院から紹介状を書けば、すぐに医大でも診てもらえるので」

 湊はやはりなにも答えない。そして、真っ直ぐに見つめる悠一郎の視線から逃げた。

「ミナ……」

 さらに言い諭そうと悠一郎が喋りかけたところで、湊の電話が軽快なメロディを鳴らした。

「家からだ」

 湊が首を傾げながら通話ボタンをタップする。電話の向こうは母親だったのか、いつものぶっきらぼうな口調で受け答えをしていた湊が、徐々に青ざめていった。

「ばあちゃんが……なんで……」

 湊の声が震えている。

「一人で海に行くことなんかないだろ!?」

 息子を諭すような声が小さく漏れ聞こえている。

 やがて、湊は無造作に電話を置いた。

「ミナ、どうした?」

 俯いた湊が、すがるような目で俺を見た。

「ばあちゃん死んだって……海で」

 息を飲んだ。湊の唇が小刻みに震えている。

「溺れたって……なぁ、俺のせいかな? 俺が海に連れて行ったから……だから」

 それ以上、湊は言葉を続けることができなかった。唇の震えは顔に身体に拡がり、やがて自分を抱き込むように湊が小さくなった。なんで。顔を埋めた腕の中から呻く声。

 なんで?

 触れると熱いだろうか。そんなことを思いながら、俺は湊の背中をさすった。湊の震えが治まり、これから田子に向かうと立ち上がるまで。

「なぁ、ユッチ。どういうことだと思う?」

「僕に聞かれても……」

 悠一郎から、これまで聞いたこともないくらい弱気な言葉が飛び出したことに驚いた。原因を突き詰めて解明することを端から諦めたような悠一郎は初めてで、俺はにわかに焦った。

「ミナ。大丈夫かな?」

「それはどちらの大丈夫、ですか?」

 異常な程に熱がることか、それとも祖母を亡くしたショックか。それは、どちらかと選べるものなのだろうか。むしろ、その二つは同じ要因によって発生しているのではないか。

 溺れた人魚。そんな童話の題名みたいな言葉が脳裏に浮かんだ。

「人魚? そんなこと」

 あるわけがない。そう続くだろう言葉は、悠一郎のなかに飲み込まれた。

「タツ。人魚のことは置いておいて、魚はだいたい何度くらいまで生きられるんでしょうか?」

「え?」

 今、急に思い出したんです。悠一郎の口は、脈絡のない文章をつらつらと吐き出しているように思えた。

「この前の朝、ラジオをつけてたら、子ども向けの科学番組をやってたんです。小学一年生の女の子が、寒い冬に飼ってた金魚が寒そうだからって、水を温かくしたら死んでしまったって……」

「水道水? ならせいぜい四〇度くらいか?」

 この家の給湯はキッチン横のリモコンで、夏は三八度、冬は四〇度に設定されている。

「三〇度でもかなり悪いコンディションなんだそうです。それも徐々に水温が上がった場合で、急に水からお湯になった場合は適応できない」

 そして、魚は火傷をしたように傷んでしまう。心臓がぎゅっと握られたように苦しくなった。

「もう一つ。同じ魚でも淡水魚と海水魚は、水の中という条件は同じでも、互いの領域では生きられませんよね」

 塩分濃度は低いほうが高いほうへと入り込んでいく。自然の力は異なる環境を無理矢理にでも合わせてしまおうとする力が働くのだ。

「田子のおばさんのお宅にお邪魔したとき、おばあさんはお風呂よりも海に行きたいと言っていました」

 塩分の濃度が濃いほうへ。海に浸かった湊は、一度も砂浜に上がろうとしなかった。

 干からびてしまうとばあちゃんは言った。暑さで体内の水分が減って、塩分が足りなくなる症状が、普通に人よりも早く進んでしまうということじゃないかと悠一郎がつぶやく。

 スポーツドリンクで、塩で、経口摂取ではもう間に合わないから海を求める。そう考えると理屈が合ってしまう。

「だからどうしたんだって、僕にも全然わからないんです。ただ……」

 湊は、熱すぎてお湯に浸かれないと言った。

 湊は、海の中を気持ちがいいと言った。

 でも、湊は泳ぐことができない。

 そして、湊は陸で酸素を吸って生きている。

「だから人魚……?」

「陸に上がった人魚がどうなるかなんて分かりようもないですけど……少なくとも湊の体温は魚に近くなっているように思えて……」

 だからあいだを取って人魚。もっとも人魚なんて実在しないのだけれど。そう付け加えた悠一郎が、自分で自分に納得できないとばかりに唇を噛んだ。

「魚みたいになる病気。けど、完全には魚じゃなくて……」

 だから人魚という言葉が当てはまってしまう。陸でも水中でも中途半端に生きている、おかしな人魚。生きているのに、それは一歩間違えれば死んでしまう。温かな風呂で火傷を負った夏波のように。海で溺れたばあちゃんのように。

「人魚の熱――?」

 脳裏に浮かんだ単語は、気づけば声に出ていた。

「人魚熱ですか。病名がついたなら、そんな通称名になりそうですね……」

 湊がちゃんと検査に行ってくれれば。悠一郎が辛そうに顔を歪めた。

「俺。ミナが死ぬのは嫌だ」

「僕もです」

 多分、悠一郎も夏波の葬式を思い出していたに違いない。途方にくれた湊がひとりで立っている。あの日のように、一緒にいて、肩を抱いてやれたらいいのに。

 とにかく、湊と一緒に過ごして、できれば病院に行くようにさりげなく誘導できたら。結局はそんな、ありきたりな結論を確かめ合っただけで悠一郎とは別れた。


 随分と寒くなったのに、湊はまだ上着を羽織ろうとしない。そして文化祭を境に、ぱったりと彼女を作るのをやめてしまった。街にあふれる赤と緑のイルミネーションも目に入らないみたいにぼんやりしている。早くも受験ムードが高まりつつある教室でも、一人で過ごしていることが多くなった。

 湊の周りに人がいない光景が不思議だった。だけど、一人になった湊はどこか安心しているようにも見えた。

 雨が降ると、うれしそうに外に出る。傘はささない。白い、氷のような肌で俺に触れる。

 それは、冷たいのに熱い。その熱は俺の中に抑え込まれた青い欲望を引きずり出してしまう。あるときは並んで寝転がり本を読んでいた。ふとした拍子に目が合い、その距離が思った以上に近くて落ち着かなくなった。躊躇する俺を見抜いたかのような湊は、余裕の笑みを浮かべて手を伸ばし、唇を寄せる。一気に全身を支配する熱に抗えず、俺たちは何度もキスをした。火傷をしないように、唇の表面だけを触れ合わせる羽のようなキスだ。それから、体温を確かめたいと口実に、互いを触れ合った。

 自分の熱が何によって生まれているかは自覚していた。それは未知の性への興味だ。

 だけど、湊はすでに興味の先を知っているわけで、だとすればその衝動が何によって生まれているのか俺には不思議でならなかった。聞かなかったのは、惜しかったからだ。例え、自分と同じ性でも、大人びた幼馴染の唇は柔らかく、必死に撫でる手のひらは大層心地よかったのだ。

 少しすると湊は暑いと離れる。急激に冷めていく熱が悔しくて、またその皮膚を重ね合った。

 こんなのは間違っている。湊が帰り、部屋で一人になると、建前の理性がいつも俺を責め立てた。

 湊はなにを思って俺に触れるんだろう。しっとりと湿った唇にそっと触れてみたところで、治まりかけた熱が燻り始めるだけだった。。

 海外旅行に行く両親に同行しなかった悠一郎が、大晦日に合流した。三人で蕎麦を食べ、深夜の澄み切った空気のなかを初詣へと繰り出す。人通りのない歩道、並列の順番は、昔から変わらず俺が真ん中だった。

 湊のお気に入りだったダウンジャケットは、今シーズンまだ活躍の場を与えられていない。裏起毛のパーカーはせいぜい室内用で、それに申し訳程度のマフラーを巻いている。

 並んで歩く途中、湊の手が俺に当たった。それは習慣のように俺の手指に絡み、外だというのにあらぬ熱を呼び起こした。

「ユッチのとこ、いつ帰ってくるんだ?」

 湊と手を繋いだまま、自分だけがわかる程度にうわずった声で問いかけた。

「三日の昼に。タツのところは?」

 俺の母は、最近調子の悪い田舎の両親を見舞っている。普段は仕事で忙しく、なかなか顔を出すこともできないからだ。かと言って、幼少期から大した交流のない俺は、体調の思わしくない祖父母宅での息苦しさを思って留守番を決めた。

 こういうとき、自分はなんて冷淡な人間なのかと愕然とする。湊のように、祖母の手を引いて出かけるなんて、考えもつかない。仕事の忙しい母と数週間顔を合わさなくても、変わらない毎日を過ごしている。悠一郎のように、母を安心させるような進路を見つけることもできない。

 なにもかも適当で、中途半端で、そのことに危機感も持てない。

「ミナはよかったんですか?」

 俺越しに悠一郎が話を膨らませる。湊は俺の指を握ったまま、ぼんやりと歩いていた。

「ミナ?」

 不審げに覗き込む悠一郎に、俺は慌てて湊の手を振りほどいた。我に返った湊が、驚いたように俺を見上げる。不安定に光る街灯の光を受け、湊の髪が淡く浮かび上がった。

「なに? どうかしたのか?」

「おまえ、聞いてなかっただろう? ユッチの話?」

「あ、悪ぃ……なんて?」

 素直に謝った湊に、悠一郎が片眉を上げる。

「お正月なのに、ご両親と過ごさなくて大丈夫だったんですか?」

 夏波がいなくなって、湊は一人残った子どもだ。日常に戻ったかのようなおばさんも、むしろ子どもの頃より頻繁に湊へ連絡を寄越す。もう一人も亡くしてしまったらという不安からではないか。そんな風にも思えた。

「今日は夜勤だってさ」

「おじさんは?」

「別に……どうせ飲んだくれてんじゃねぇの?」

 他人事に言い放った湊が、しまったとでもいうように作り笑いを浮かべた。

「今更じゃん。去年もいなかったし」

 去年は三人で過ごさなかった。悠一郎は両親と旅行に行っていたし、俺は母と過ごして、湊はそのとき付き合っていた歳上の彼女と初日の出デートなのだと、彼女の車で夜通し出かけていた。

 なにか言いたげな悠一郎から逃げるように、湊が数歩先を先導し始めた。

「見てるだけで寒くなりますね」

 俺にだけ聞こえるように悠一郎の小声がつぶやいた。

「暑くなったらすぐ脱げるように、ジャンパーじゃなくてマフラーなんだって」

「いつもですか?」

「制服のときはパーカーも着てないよ」

 夜風に髪をなびかせて、湊はリズミカルに歩いている。その後ろ姿はとても楽しそうだ。

「タツ! ユッチ! 遅ぇよ!」

 湊が振り返った。

 俺たちは顔を見合わせ、小走りに湊を追いかける。

「夜って気持いいよな」

 両手を大きく広げ、満面の笑みの湊が澄んだ星空を見上げた。

 まだ参拝客の少ない境内で柏手を打ち鳴らし、振る舞いの甘酒をすすった。熱くて飲めないとぼやく湊を待って、巫女装束のアルバイトが担当するおみくじを引く。

「大吉です」

「俺は吉……ミナは?」

 無表情に見入っていた湊が、黙ってそのおみくじを縦に折り曲げた。

「あー……結んでくる」

 走り去った湊が、その不穏なおみくじを雑に結んでいる。

「俺も結んでくる」

 一人大吉を引いた悠一郎を残して、湊の隣に並んだ。

「おみくじ、悪かった?」

「……凶」

「それはそれで珍しいじゃないか」

「うれしくねぇよ」

 結び終わっても、湊は動こうとしない。

「タツ。手、冷たい」

 投光機に照らされた湊の素手は、血の気を失くして真っ白だ。

「手袋しないからだろ」

「暑いんだもん」

「冷たいって言ってるくせに」

 頬を膨らませた湊にため息を返し、その手を握りこんだ。そう、それはもはや息をするように無意識の動作だったのだ。

「温い……」

 ホッとしたように湊が力を抜いた。数メートル離れた悠一郎が、それをどんな目で見るのか、そんなことすら思いつかないほどに。だから、人ごみを避けて待っている悠一郎の傍に戻った途端、湊と二人、慌ててその手を離した。

 帰り道、だれも喋ろうとしなかった。会話がないことが気まずさを助長しているように思える。

 長い石段を下り、街灯の照らす薄暗い住宅街を抜け、幹線道路の交差点を渡り、マンションが見えてきたところで、不意に悠一郎が立ち止まった。生真面目な悠一郎は、歩きながらずっと悩んでいたのだろう。

「あの。こういうことを聞いてもいいのかどうか、僕はあまり分からないんですけど……」

 怪訝に振り返った湊と俺を交互に見つめ、珍しくためらうように言葉を選んだ。

「ミナとタツは……その」

「俺らが、なに?」

 湊がきょとんとした顔で聞き返した。悠一郎の疑問に、心底気づいていない湊とは逆に、俺は悠一郎がなにを言いたいのか早々に察してしまった。挙動不審に陥った脳を懸命になだめながら続きを待つ。

「その、さっき。手を……」

 思わず目を反らした悠一郎に、鈍い湊もやっと意味を飲み込んで、慌てたように両手をポケットに突っ込んだ。

「ミナは最近、彼女を作っていないって言ってましたし……その、タツと……」

 それはない。悠一郎の語尾へと重ねるように、二つの声が重なった。

「さすがに俺だって、タツと付き合うとか考えねぇよ」

 湊が、呆然とつぶやいた。俺は湊の意見に同意する頷きを大きく繰り返し、まだ納得できないという顔の悠一郎を横目に、内心で悠一郎に同意をしていた。

 恋人というカテゴリとなれば、湊が言うように違うのだとはっきり答えることができる。だけど、それならあのキスは、あの肌の重なりは一体なんなのだろうか。

「ミナ。不安ならちゃんと検査に行ったほうがいいですよ」

 何度目かわからない正論に、湊は機嫌を損ねることもなく、ただ頷いただけだった。わかっている。だけど行きたくない。そんな子どもじみた言い訳が聞こえるような気がした。

「タツも甘やかし過ぎなんです」

 矛先がこちらを向いてきたことで、慌ててそんなことはないと否定した。

 流されている事実は否めない。けれど、それだけじゃないという反論を正しく悠一郎に伝えられる自信もなかった。

「俺、F大行こっかなぁって思ってんだけど」

 え? 悠一郎と二人、間抜けに聞き返した。誰よりも先に、湊の口から進路に関する話題が出たことが、意外すぎたのだ。

「進学するんですか? それなら、もっと家から近いほうがいいんじゃ」

 言葉は悪くなるが、特色もほとんどないF大にわざわざ家を出て進学するのは無意味だろうと、悠一郎が慎重に意見した。県境にあるF大は、通学するには微妙に遠く、下宿するには勿体なさを感じる距離だった。

 ああ、置いていかれる。俺は、人生で何度目かわからない焦燥に身悶えた。あと数ヶ月で高校三年になるのに、俺はまたしても何も考えていない。適当に行ける大学を選べばいいだろうと、その程度なのだ。

「結構、限界なんだよ」

 マンションの前まで来たのに、エントランスには入らず、俺たちは植え込みのブロックに並んで腰をかけた。

「親にさ、誤魔化すのキツイんだ。一番は風呂だけど、食事とかエアコンの温度とか、いろいろ」

 昨日だって、夜勤の母に代わって夕食を作った父は、熱々の鍋を早く食べろとせっつく。おかげで今日は口の中が痛くて仕方がない。湊が痛みを思い出したかのように顔をしかめた。

 やはり湊は、家族には言っていないのだ。

「だから、ちゃんと病院に……」

「そこんとこ、一人のほうが上手くいくだろ? 別にさ、学校とか行くのに不自由はないんだよ」

 そして、これからも家族には言うつもりがない。病院に行く気なんかさらさらないのだ。悠一郎にもそれが伝わったらしい。

 あれこれ言い諭したい気持ちをぐっと堪えた悠一郎が、冬の空を睨みつけた。

「僕は、眼科じゃなくて内科にしようかな」

 一人息子の悠一郎は、父親の内科ではなく、母親の眼科を継ぐつもりなのだといつか宣言していた。それは、両親の希望でもあるらしい。

「それだったら、僕が検査できるし」

 だれにも知られたくないなら、そのようにしてやれるから。悠一郎のなかで、医学部に進むことはすでに決定で、意識はその先に向けられている。

 俺は、どうするのが正解なのだろう。

 湊がせめて体温を確かめられるようにと傍にいること?

 逆に、湊が頼れないよう距離をとること?

 自分がやりたいことなんか特段思いつかなくて、ただ選択肢のなかには湊と悠一郎との関係だけが存在している。

「ユッチはまだ合格もしてねぇくせに、狸の皮の色を選んでんじゃねぇよ」

 湊が悠一郎の背中を叩きながら笑う。

「僕は不合格になる気はありませんよ。ミナと違って」

 憮然とした悠一郎が、それでも軽口で反論した。

「そりゃそうだ」

 あっけらかんと頷いた湊が、また受験勉強かと頭を抱えている。

「タツは?」

 悠一郎が振り向いた。

「俺は――」

 どうすればいいのだろう。

「まぁ、なるようになる、かな」

 草原の中には細い道が網目状に続いていて、悠一郎も湊もまだ近くを進んでいる。俺はそれを必死で追いかけていて、それなのに進むべき道がどれか決められずにいる。

 将来の夢という道を真っ直ぐに進む悠一郎を追うべきか。

 自分が生きるのに適した道を選んだ湊に倣うべきか。

 夢なんか特にない。俺はきっと、どこに向かったとしても、今と変わらずダラダラと流されて生きていくような気がした。

「めんどくさいなぁ」

 自分のことを考えることが、いちばん面倒だ。

 いっそ手を引いて、無理矢理に引きずってくれたらいいのに。


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