第98話 迷子のふりと、ふたりの影(芽吹月二十六日・午前/姫様視点)
温室を後にして、中庭の散歩道をゆっくりと歩く。
春風がほどよく頬を撫で、木々の葉が揺れるたび、陽射しが斑に踊った。
「姫様、道、間違っていませんか?」
「ええ、間違ってるわよ」
「……え?」
「だってわたくし、迷子のふりをしてみたかったの」
「迷子の“ふり”ですか……」
アイリスはあきれ顔で私を見る。
けれどその横顔には、どこか笑いをこらえている気配があった。
「ふりをすると、あなたが隣で心配してくれるでしょう?」
「心配というか……呆れというか……」
「ふふ。それでも、撫でカウント:7」
「姫様、それさっきからどんどん増えてませんか……?」
「可愛いものを見たら自然とカウントは上がるの。これ、感情反応と直結してるから」
「だからって、上限はないんですか?」
「そんなもの、あるわけないじゃない」
私は満足げに微笑みながら、アイリスの髪に指を滑らせる。
その髪は朝よりも風に揺れて、ほんの少し乱れていたけれど、逆にそれがまた愛らしい。
アイリスは照れくさそうに顔を背けるが、拒絶はしない。
ここ最近、彼女は“撫でられる”ことに対する抵抗がどんどん薄れてきている気がする。
(いい傾向ね)
ふたりで歩いていると、途中、庭師の老紳士とすれ違った。
彼は一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに帽子を取り、深々と頭を下げる。
「おはようございます、姫様。そしてお連れの……」
「わたくしの付き人よ。大切な子なの」
「……は、ははっ。いつも姫様がご覧になっていた花の世話、任されております。よろしければ、ご案内を」
「ありがとう。でも今日は、ふたりだけで歩くの」
老庭師は意味ありげに目を細め、何かを察したように静かに頷いてくれた。
その背を見送ったあと、アイリスがぽつりと呟く。
「……姫様、今の言い方……」
「なにか問題あったかしら?」
「“大切な子”って、そんなふうに紹介されるの、初めてで……」
「だって、本当に大切だもの」
私はさらりと言いながら、彼女の手を再び取った。
今度は、指を絡めるようにして。
アイリスは、わずかに手を固くしたけれど、拒まなかった。
「……撫でカウントは増えませんか?」
「ふふ、今のは“手つなぎカウント:1”よ」
「新しい単位、増えてませんか!?」
「愛情の測定には、多角的な指標が必要なのよ」
アイリスはとうとう、頭を抱えるふりをして笑った。
その笑い声が、春の庭に静かに溶けていった。
──今この時間が、ずっと続けばいい。
そう願ってしまうのは、私のわがままかしら。
でも、もしそれが叶うなら──
私は、どれだけでも撫でて、愛して、この子の隣にいたいと思った。




