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第97話 春の温室と、ふたりだけの世界(芽吹月二十六日・午前)

 王城の東側、中庭の奥に隠れるように建てられた小さな温室──そこは、春の花が一年で最も美しく咲き誇る場所だった。


 姫様は私の手を取りながら、朝の石畳をゆっくりと歩く。


 「……手を繋ぐ必要、ありますか?」


 「あります。撫でカウントには入らないから安心して」


 「そこは安心するところじゃないような……」


 吐息のように返してみるけれど、姫様の手の温もりはどこまでも柔らかく、まるで離す理由が見つからないようだった。


 温室に入ると、春の香りがふわりと鼻をかすめた。

 色とりどりの花が陽光に照らされ、静かな光を帯びて揺れている。


 「わあ……」


 思わず声が漏れた。

 それほどに、幻想的な空間だった。


 「ふふ。やっぱり来てよかったわね。アイリス、あっちの花も見て」


 姫様が指さす先にあったのは、淡い紫の花。

 名は知らなかったけれど、どこか儚げで、優しげで。


 「……姫様、その花……あなたに似てます」


 「そう? でも、あなたに似てるとも思うけど?」


 「え……」


 「どちらにせよ、わたくしの手元に置いておきたいと思わせる、という意味でね」


 「いえ、そういう意味では──」


 「撫でカウント:5」


 「はい!? ここで!?」


 「あなたが可愛くて思わず頭に手が伸びたの。これはもう本能よ」


 私は咄嗟に振り払おうとして、でもやめた。

 というより、姫様の指先がふわりと触れたその瞬間、力が抜けてしまった。


 「……最近、撫でられるのに慣れてきた気がします」


 「それは進歩ね。自覚して褒めていいのかしら?」


 「どうなんでしょう……」


 温室の奥には、ひとつだけ木製の長椅子が置かれていた。

 姫様はそこに腰を下ろし、手招きをする。


 「アイリス、隣。もっと近く」


 「……これ以上はもう十分近いかと」


 「だめ。今のあなたはまだ三分の一くらいの密着率よ」


 「密着率ってなんですか!?」


 「撫でカウントと並ぶ姫様基準値。しっかり覚えておいてね」


 「はいはい……」


 仕方なく隣に座る。

 けれど、気づけばその距離は、指先が触れ合うほどにまで近づいていた。


 「……こうしてると、世界が静かになる気がする」


 姫様の声は、小さく、胸の奥に響いた。

 私はふと、手のひらを見つめる。


 繋いだままの姫様の手は、何よりもあたたかく、信じられないくらい自然だった。


 「……姫様。こうして過ごすの、嫌じゃないんですか? 誰かに見られたりとか……」


 「誰に見られても、あなたと過ごす時間の方が大事よ」


 そう言って、微笑む。


 その笑顔を見てしまったら、もう何も言えなかった。


 ただ、隣で花の香りを吸い込みながら、私は目を閉じた。


 しばらくして、姫様の声が、ひそやかに耳元へと届いた。


 「撫でカウント:6」


 「……増やさないでください……」


 それでも、どこか微笑まずにはいられない朝だった。



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