第95話 報せと、戻る場所(芽吹月二十六日・未明/姫様視点)
夜の冷たさが少しずつ薄れて、空が白みはじめた頃。
私は、自室でひとり、不安を抱えたまま立っていた。
扉の外には騎士の気配がある。
でも──肝心の、あの子がいない。
「……遅いわね」
わたくしの声は、思った以上に震えていた。
「カティア。まだ、なの?」
「はい。南塔付近の巡回部隊と合流後、戻るとのことでしたが……」
「その“戻る”が、どれだけ心臓に悪いと思ってるのかしら」
カティアが少しだけ肩をすくめたその瞬間だった。
ノック音。
──小さく、けれど力強く。
「姫様、戻りました」
扉の向こうのその声。
私は反射的に駆け寄り、扉を勢いよく開け放った。
「アイリス──!」
そこにいたのは、確かに彼女だった。
肩で息をし、袖口にわずかに血がにじんでいる。
「怪我は? 無事なの? どこが痛いの? 撫でてもいい?」
「最後のは余計です、姫様……」
けれど、その声はいつも通り。
私はそれだけで、胸がいっぱいになった。
「ごめんなさい……遅くなりました」
「いいのよ。生きて帰ってきてくれた。それだけで、いいの」
私はそっと手を伸ばし、彼女の指先に触れた。
冷たくなったその手が、ゆっくりとわたくしの掌に収まっていく。
「……報告、してもいいですか」
「ええ。聞かせて」
彼女は、敵の一部を目にしたこと、そして「何かを進めようとしている」との言葉を聞いたことを淡々と話した。
「……“先に進める”って、何のことなのか……はっきりとはわかりません」
「でも、それがあなたを“鍵”と呼ぶ理由と関係しているのね」
「たぶん……はい」
沈黙が、部屋を満たす。
夜明け前の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
「カティア」
「はい」
「警備体制を再確認して。アイリスが眠れる場所も、もう一度見直すの」
「かしこまりました」
カティアが一礼して去ったあと。
私は、そっとアイリスの肩に手を置いた。
「さあ。今夜は、ここで一緒に休みましょう」
「でも……わたし、また狙われるかもしれません」
「ならなおさら、わたくしのそばにいなさい。わたくしの隣で、ちゃんと休むの」
「……はい」
照れたような顔のまま、彼女は静かにうなずいた。
そして、寝台の中。
あたたかな布団と、かすかに触れる指先。
「……今夜は、もう大丈夫ですか?」
「ええ。撫でたい気持ちは抑え込むから」
「……はあ。姫様、今日の“撫で”はこれで三回目です」
「えっ、そんなに? 数えてたの?」
「数えないとキリがないので……昨日は五回でした」
「……一日五撫で以上は禁止にするとか、そういうルール、要るかしら」
「はい、ぜひご検討を」
「でも、非常時にはノーカウントで」
「ええと、それは“撫でたい姫様的非常時”の定義によりますね……」
「ふふ。じゃあ今夜は、ふたりで新しい撫で基準を考えましょう」
「寝かせてください」
私は笑いながら、アイリスの額にそっと手を伸ばし──その柔らかい髪を、ほんの少しだけ撫でた。
「……これ、今日の四回目……」
「安心のための特別枠よ」
「はいはい……」
ふたりで静かに目を閉じる。
外では、夜がほんの少しだけ、名残惜しそうに過ぎ去っていく気配がした。




