第94話 影の兆しと、夜の足音(芽吹月二十五日・深夜)
その夜は、やけに風が静かだった。
昼間の報告と姫様の指示により、私は姫様の私室に隣接する部屋──いや、実質的には同じ寝台──で休むことになっていた。
「……やっぱり、わたしが横にいるのは変じゃないですか?」
「あなた、まだ文句があるの? 撫で放題よ?」
「そこが一番の目的じゃないですよね……?」
「第二か三番目くらいかしら」
呆れと笑いが混じった会話を交わしながら、それでも私は姫様の隣で眠ることに、かすかな安堵を感じていた。
けれど。
夜が深まり、姫様の寝息が静かになる頃。
その安堵は、ふとした“違和感”によってかき消された。
──音。
廊下の、石造りの床を擦るような音。
(見回り? でも、足音が……おかしい)
重さの違い。間隔の違い。
兵士が履く金具付きの軍靴ではない。
もっと軽く、もっと忍ぶような──
私はそっと起き上がり、姫様を起こさないように足音を殺す。
(また来たの?)
深夜の王城は冷え込み、窓の外では月がぼんやりとかすんでいた。
扉の前まで近づき、耳を澄ませる。
気配が、確かにある。
(でも、一人じゃない……?)
す、と気配が二つに分かれる。
廊下と、窓の外。
同時に動いている。
その瞬間、私は身をひるがえし、寝台に戻った。
姫様の枕元に立ち、そっと揺さぶる。
「……姫様。起きてください、気配が」
「……ん……なによ……撫でるの……?」
「撫でません! 敵かもしれませんっ!」
「……っ、敵!? どこ!? 撫でる気配!?(錯乱)」
「敵の気配です!!」
混乱気味な姫様をなだめながら、私は短剣を手にする。
ノックもなく、廊下の扉が“カチリ”と動いた。
──その直後。
「そこまでだ」
鋭い声とともに、廊下側から金属音。
応戦したのは、すでに配備されていた騎士団の影。
「……罠だったの?」
私は扉を開け、廊下に出る。
そこではカティアが敵の一人と剣を交え、もう一人の影が逃走する瞬間だった。
「ひとりは逃げた! 南通路へ!」
「追います!」
私の声に、姫様が目を見開く。
「アイリス、危ない──」
「でも、今なら捕らえられます!」
短剣を手に、私は風のように走った。
夜の王城。
沈黙の中、足音が高鳴る。
月が照らす石畳の先で、影がこちらを振り返った。
そして、私の名を口にした。
「やはり……鍵は、おまえか」
その声に、全身が強張る。
心の奥が冷え切るような、底のない闇。
私は構えを取り、息を整えた。
逃がさない。
──これは、警告ではなく、狩りだ。
狙われているのではない。
狩られようとしているのだ。
でもそれなら、私が、姫様のために。
──この城の鍵としてではなく、
彼女の隣に立つ者として──応じよう。
「……誰にも、触れさせない」
影は、笑ったように見えた。
そして、投げナイフのような細い刃を宙へと放つ。
私は地を蹴り、壁を使って反転しながらその刃を躱す。
次の瞬間には短剣を逆手に、敵の腹部を狙って滑り込んでいた。
「甘い──」
敵の足が素早く動き、私の攻撃はかわされた。
そのまま背後へ。
(くっ、読まれてる……!)
だが、その回避には無理があったのか、敵のフードが僅かにめくれる。
その瞬間、私は目を見開いた。
──女だった。
しかも、どこかで見たような。
(……まさか……)
「“もう十分ね。これで先に進める”」
彼女は小さく呟き、背後の窓を破って外へ跳び出した。
「待って──っ!」
私は追いかけようとしたが、足がもつれた。
体が重い。
古傷の疼き。
視界がわずかに揺れる。
それでも私は、足を前へ出した。
彼女の言葉──“先に進める”──が気になって仕方なかった。
(なにが“先”……? なにを進めるの……?)
私は壁に手をつきながら、夜風の中、去っていった影を見送った。
「……逃げられた……でも」
次は、私の番だ。
今度こそ、私はただの鍵ではない。
誰のためでもない。
彼女──姫様のために、
“戦う者”として立つ。
夜が、また一つ深くなっていく中。
私は心の奥で、強く、強く誓った。




