第92話 やさしい日差しと焼き菓子(芽吹月二十五日・午後/姫様視点)
久しぶりに、穏やかな午後だった。
中庭に広がる陽だまりはあたたかく、春の風が木々を撫でている。
遠くから鳥のさえずりが聞こえ、花壇の白いクロッカスがゆらりと揺れていた。
私は東庭のテラスに敷かれた白布のテーブルに座り、そっとカップを口元へ運ぶ。
アイリスは、私の向かい。
少し遅れてやってきた彼女は、最初こそ恐縮していたけれど、紅茶の香りを嗅いだ瞬間、微かに表情が緩んだ。
「……いい香りです」
「今日は、特別なブレンドなの。マルグリットが調合してくれたわ」
「マルグリットさんって、本当に紅茶に関してはプロですね」
「ええ。でも、あなたの焼き菓子も、引けを取らないと思うけれど?」
テーブルの中央には、淡く焼き上がった菓子が並んでいた。
ひとつひとつが小花のかたちをしていて、見た目も可愛らしい。
「……お口に合えば嬉しいです」
「いただきます」
私はひとつ手に取り、さくりと噛んだ。
軽やかな食感のあと、ほんのりとした甘さと、レモンの香りが口いっぱいに広がる。
「ん……やっぱり、アイリスの作るお菓子って、やさしい味がするわ」
「そう言ってもらえると、作った甲斐があります」
彼女の笑顔は、ようやくほんの少しだけ、無防備さを取り戻しつつあった。
その顔を見ているだけで、私はなんだか嬉しくなってしまう。
「……少し、顔色も良くなったわね」
「はい。昨日は、ご心配をおかけしました」
「ええ。ほんとうにね。正直、怒ってるのよ?」
「……はい」
彼女はすまなそうにうつむいたけれど、その肩の力はどこか抜けていた。
責めてほしいわけじゃない。きっと、それでも隣にいてほしいのだろう。
「でも、許してあげる。今日は、特別に」
「……ありがとうございます」
「その代わり、明日は朝からずっと一緒にいるから、覚悟しておいてね」
「……はい」
恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに彼女は笑った。
*
そのあと、私たちは屋敷の書庫で選んだ本を読み始めた。
タイトルは『一輪の誓い』。
ある姫君と、その護衛の騎士が織りなす、誓いと試練の物語。
「──“どれほど剣を振るえても、あなたが傷つけば、私は立っていられない。”」
「……姫様、それって……」
「うん、あなたにも少し似てるかもしれないわ」
「でも、わたしは……そんなに強くないです」
「それでも、私を守ろうとしてくれたじゃない。わたくしには、何よりも強い人に見えたのよ」
「……それは、姫様がそう思ってくれるから……」
そのあとのページをめくる手が、少し震えていた。
けれど、その震えを止めるように、私は自分の手を重ねた。
「アイリス」
「……はい」
「あなたが、どんなに傷ついても、どんなに不安になっても、わたくしは、ずっとあなたの隣にいるわ」
「……姫様」
「だから、これからはもっと頼ってちょうだい。遠慮しなくていいの。あなたのことは、わたくしが全部、受け止めるから」
アイリスの瞳が、静かに潤む。
彼女が泣きそうになるなんて、あの夜以来かもしれない。
けれど、涙はこぼれなかった。
かわりに、彼女はそっと私の手を握り返した。
「……はい、姫様」
「ふふ。よろしい」
陽が傾くまでのあいだ、私たちはずっと、静かにその本を読み続けた。
その時間が永遠に続けばいいと、本気で思った午後だった。




