第9話 アイリス、紅茶を運ぶ(王城歴1349年 春月三十日)
春月三十日。朝、厨房は久しぶりに穏やかだった。 「今日は何事もなく終わりますように」と誰かが呟いていたが、私はむしろ落ち着かなかった。
「……静かすぎるのも、それはそれで不安ですね」
早めに当番を終えた私は、倉庫の片隅に隠すように置いていた包みをそっと取り出した。
中身は、昨晩のうちに用意した自家製ブレンドの茶葉と、小さな陶器のティーポット。 王宮に来て間もない頃に譲ってもらった古いものだが、今でもしっかり湯を保つ。
「よし」
私は包みを抱え、廊下を早足で抜けていく。 途中、同じ使用人の少女とすれ違った。
「お、アイリス。なんだか今日は、ちょっと浮いてない?」
「浮いてはいません」
「うん、そういう返しがすでに浮いてると思うんだけど?」
からかうような視線を受け流しながら、私は静かに東庭へ向かった。
花壇の前には、今日も変わらず姫様の姿があった。
「おはよう、アイリス!」
「おはようございます、姫様」
「その包み……もしや、紅茶!?」
「本日は、“第一回・アイリス紅茶会”でございます」
「きたー! 昨日からずっと楽しみにしてたのよ!」
姫様は立ち上がり、まるで祝祭か何かが始まるような勢いで私の持っていた包みに目を輝かせた。
私は落ち着いた手つきで茶器を並べ、お湯を注いでいく。 香りが立ち上がった瞬間、姫様がくんくんと鼻を鳴らす。
「この香り、ちょっとスパイシーなような、でも甘さも……何入ってるの?」
「干した柑橘の皮と、生姜、少しだけシナモンです」
「なんか体が温まりそう! ていうか、王宮の公式紅茶にしていいレベルじゃない!?」
「過分なお言葉です」
「じゃあ次は“アイリスブレンド”として王族御用達に……あ、でもそうすると毎日飲めなくなるか」
「そうなりますね」
「じゃあ、非売品! 私専用!」
「それは……検討いたします」
ふたりでカップを手に取り、東庭の静かな時間が始まった。 姫様は紅茶を一口飲んで、目を細めた。
「ん~、あったかくて、ほっとする……この感じ、たまらない」
「本日も、お気に召していただけて光栄です」
「ねえ、アイリス。あなたってほんと、なんでもそつなくこなすけど……いつ休んでるの?」
「……任務が終わったあとに、少しだけ」
「ふーん。じゃあ、その“少し”の時間に、私とお茶してくれるんだ」
「……そうですね」
姫様はそれを聞いて、ほんの少しだけ満足そうな顔を見せた。
その後、侍女に呼ばれた姫様は名残惜しげに立ち上がり、紅茶を最後まで飲み干していった。
「明日も、よろしくね」
「はい。準備しておきます」
姫様が去ったあと、私はゆっくりと茶器を片付け始めた。
ふと、誰もいない東庭を見渡す。
さっきまでここにあった温もりが、まだ風の中に残っているような気がした。
「……次は、もう少し香りを甘くしてみましょうか」
誰にともなく呟いて、私は包みを抱えた。
その足取りは、朝よりも少しだけ軽かった。