第89話 誓いと背中(芽吹月二十四日・早朝)
夜が明ける少し前、私はひとりそっと部屋を出た。
扉が軋まぬように気を配り、足音を殺して廊下を抜ける。
寝息の消えた静寂が、まるで時間の底を歩いているかのようだった。
姫様の言葉──「無理はしないって、約束して」
それが胸の奥で何度も何度も反響していた。
でも。
(あの言葉を守っていたら、何もできない)
姫様を守りたい。
それだけなのに、誰も私に方法を示してはくれない。
誰かが、私を見ている。
誰かが、城の中で何かを狙っている。
気配の正体はまだ掴めない。
でも、あの影は確かに“こちら側”の人間だった。
(なら、私が探すしかない)
今度こそ、誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけず。
*
南棟の地下倉庫。
あの日、違和感を感じたあの場所。
誰もいない時間を狙って、私は再び扉の前に立った。
前回とは違う。
手には短剣。
足音には迷いがない。
「……開いてる」
扉がわずかに開いていた。
中に人の気配はない。
けれど──
ぴたりと、背後で気配が止まった。
(……来た)
瞬間、私は跳ねるように身を翻し、短剣を構える。
だがすでに、背後にいた何者かが飛びかかってくる速度の方が速かった。
衝撃。
背中に激痛。
私は床に叩きつけられ、手から短剣が滑り落ちる。
「……く、あっ……」
身を起こそうとするより早く、首筋に冷たい金属の感触があてられた。
「“従者”か。“姫の鍵”……都合のいい餌だな」
聞き覚えのない声。
男か女かすら分からないほど、作られた低音。
「姫様に、何を……っ」
「……その口が、よく動く」
喉元の刃が浅く押し込まれ、細い血の筋が一筋、肌を滑った。
「今さら遅い。お前はもう、印をつけられた。あとは反応を引き出すだけだ」
(……反応?)
(私を……囮に?)
「お前は動かずともいい。寝台の上で死んでくれれば、反応は充分だ」
──その言葉を聞いた瞬間、私は恐怖よりも怒りが先に来た。
姫様を“反応”と呼んだその口を、私は絶対に許せない。
「……あなたには、渡さない……ッ!」
私は転がるように肩を落とし、刃の軌道から首を外すと、すぐさま地を蹴って飛び退いた。
敵の動きが読めない。
でも、感じる。
(この相手……“戦える”)
私は落ちた短剣を拾い上げ、構え直した。
影はひとり。装備は軽装、顔は黒布で覆われている。
「従者にしては、反応がいい。だが──」
そこからの数秒は、ほとんど本能だった。
影が動き、私は跳ねた。
刃がかすめ、肩に浅い傷。
しかしその勢いのまま、私は敵の内側へ滑り込み、短剣を一閃した。
斬撃。
相手のマントが裂け、腕に赤がにじむ。
「……ほう」
だがそれだけだった。
相手は一歩も退かず、むしろ笑ったように──そして、もう一振り。
私は咄嗟に身を翻し、物陰へ滑り込んだ。
呼吸が乱れる。
そのときだった。
視界の端に、一瞬、蒼い光がよぎった。
(なに……?)
呼吸が詰まりそうになる。
胸の奥から、懐かしいものが這い上がってくるような、奇妙な圧迫感。
思い出した。
──ずっと前、まだ“訓練場”と呼ばれる場所で育てられていた頃。
──体の奥に、“危険察知”と呼ばれる感覚が埋め込まれた日々。
(まさか……これって)
使われていなかったスキル。
自分では意図せず、でも確かに今、何かが反応している。
【感覚強化:脈動】──
そのスキル名を、私はまだ口に出すことができない。
けれど確かに、相手の動きが“遅く”見えた。
──だが、その一瞬の集中も。
「遅い」
影の一撃が、意識の奥へと叩き込まれた。
視界が揺れる。
膝が折れた。
そして、
「……下がれッ!!」
叫びと共に光が閃き、敵の刃が弾かれた。
「……カティア……さん……っ」
肩で息をする私の前に、背中を向けて立つ影。
騎士の制服。
剣を抜いたその姿は、いつも以上に冷たく、鋭かった。
「──後は私がやる。あなたは下がって、絶対に動かないで」
その言葉が、全身に重く響いた。
私は、守られた。
また、ひとりでは何もできなかった。
でも、その背中を見たとき──
私は、少しだけ泣きたくなった。
「……ごめんなさい……」
私は、彼女の背にそう呟いた。




