第88話 沈黙の刃(芽吹月二十三日・夕刻/カティア視点)
夕陽が城の高窓を赤く染めるころ、私は医務室の前で足を止めた。
扉の向こうからは笑い声が聞こえる。
ふたりの、柔らかくて、満ち足りた声。
「……今、踏み込むべきじゃないわね」
私は小さくため息をつき、手に持っていた文書の束を胸元に押し当てた。
この紙に書かれているのは、アイリスの行動記録。
観察、監視、そして暗号じみた指示の痕跡。
明らかに、王城の内部で何者かがアイリスを“標的”として再び狙っている。
だけど──あの声を聞いたあとでは、どうしても冷たい現実を突きつける気になれなかった。
「……もう少しだけ、時間をあげる」
私はそのまま医務室の前を離れ、南棟の執務階へと向かう。
警備記録、物資の出入り、勤務交代……すべてを照らし合わせて、内通者の痕跡を洗い出す必要がある。
*
執務室の帳簿棚に紛れていた、一枚の小さな伝令札。
《任務継続。対象:金髪の娘。接近成功》
それを見つけたとき、背筋に冷たいものが走った。
(……やっぱり、すぐ近くにいる)
“金髪の娘”──この城で、その言葉が指すのはただひとり。
従者として仕える少女。
そして、姫様の心を揺るがす存在。
暗殺ではない。
むしろ“揺らすこと”が目的なのかもしれない。
心を壊し、忠誠を疑わせ、姫様の足元を崩す。
その手段として、アイリスが選ばれた。
誰が命じているのかはまだ分からない。
だがその実行者が、すでに内部に入り込んでいるのは間違いない。
*
私は執務室を後にして、誰もいない中庭へ向かった。
冷たい風が、頬をかすめていく。
(間に合うかしら……)
あの子は強い。
でも、強さと無防備は違う。
姫様の“心”に最も近い位置にいる彼女は、
同時に、もっとも狙いやすく、もっとも脆い場所に立たされている。
そして私は、それを知ってしまった。
(なら、守らなきゃ)
気づいた者から、動かなきゃ。
夜が来る前に、次の一手を読まなければならない。
沈黙の刃が動き出すその前に。
私は、剣を抜かずに走り出した。




