第87話 反省タイム(芽吹月二十三日・午後/姫様視点)
昨夜、ふと目が覚めたとき──彼女の気配がなかった。
隣にあるはずの温もり。
静かな寝息。
私にとって一番安心できるその存在が、忽然と消えていた。
布団の片側は冷たく、呼吸の音もしない。
(……いない)
胸が、きゅうっと痛んだ。
思わず起き上がりかけたそのとき、小さな足音。
廊下の向こうから、誰かが静かに近づいてくる。
扉が、音を立てずに開き──そして、彼女が戻ってきた。
ゆっくりと歩み寄り、そっとベッドに身を沈める。
まるで何事もなかったかのように。
(……何も言わないのね)
私は、目を閉じたまま、眠ったふりをした。
でも心の中では、さざ波のような怒りと寂しさが、静かに広がっていた。
彼女が傷を負ったとき、どれだけ苦しかったか。
自分の無力さにどれだけ泣いたか。
その彼女が、また何も告げず、どこかへ消えていくなんて──
(……絶対に、許さない)
*
彼女と同じベッドで眠るようになったのは、ほんの数日前のこと。
「わたくし、今夜はここで過ごすわ」
そう言ったとき、彼女は明らかに困惑していた。
「いえ、姫様……それはあまりに──」
「気にしないで。従者が目覚めた姿を、ちゃんと見届けたいだけよ」
「……でも、その、私は……」
「いいから。これは命令」
そうやって無理やり押し切った。
でも本当は、怖かったのだ。
また彼女が、静かに眠って、目覚めなかったらどうしよう。
そんなことばかり考えて、夜が怖くてたまらなかった。
あの夜、一緒に眠った時。
彼女の呼吸がすぐそばにあって、指先をそっと握ったら、彼女がぎこちなく握り返してくれた。
──ああ、生きてる。
それだけで、どれほど救われたことか。
*
だからこそ、私は怒っている。
黙って消えて、黙って戻ってきて、何も言わずにまた眠るなんて。
そんなやり方は、優しさなんかじゃない。
私を信じてくれていない証拠みたいで──悔しかった。
……そして朝。
「ほんとうにもうっ」
私は布団をばさっと跳ね除け、立ち上がった。
というわけで。
「反省タイム、開始します」
「ひ、姫様……?」
アイリスは、私の目を見て固まった。
この目は、決意と制裁の炎に燃えているのよ。
「え、えっと……その、わたくし、特に何も……っ」
「“何もしてない”って言う人ほど、だいたい何かしてるのよ」
「……ぐっ」
「まず、こちらにどうぞ。はい、私のお膝の上」
「えぇっ!? し、失礼では──」
「これは命令です」
反論の隙を与えず、彼女の手を引いてソファに腰掛けると、膝をぽんぽんと叩いてみせた。
しぶしぶ乗ってくる彼女は、耳まで真っ赤で、逆にかわいかったけれど、今はその感情はしまっておく。
「では、順を追って反省会を始めましょう」
「……」
「まず、朝。あなたはどこに行きました?」
「……廊下……を、少し……」
「“少し”ね? その“少し”の結果、誰と会いました?」
「ラズヴェルさん……と……」
「ふむふむ。そして?」
「……その、警戒……を、して……」
「“勝手に抜け出して、勝手に警戒して、勝手に疲れて帰ってきた”で合ってるかしら?」
「…………はい」
「よろしい。では、罰則その①──」
私は右手を挙げて指を一本立てた。
「“本日一日、わたくしがあなたを監視します”」
「……っ」
「反論は認めません。というわけで、本日のお手洗い、移動、食事、すべて付き添います」
「ひ、姫様ぁぁあ……」
*
「罰則その②。“わたくしに触れるの、三日間禁止”」
「……はい?」
「おでこも髪も、手を握るのも、勝手に背中を押すのも、全部ダメ。わたくしに触れてはいけません」
「そ、そんなに触ってません……!」
「ふふっ、そうかしら? この前の夜だって、勝手にわたくしの手を握ってたじゃない」
「それは……その、無意識で……!」
「なら、意識して我慢してもらいましょう」
アイリスが、口をへの字にして唇を引き結ぶ。
かわいくて笑いそうになったけど、今はまだ許さない。
*
「罰則その③。“行動報告義務の誓約書提出”」
私は用意しておいた羊皮紙をひらりと取り出した。
そこには美しく整った文字でこう書いてある。
《本日より七日間、起床・昼食・夕食・就寝前の4回、行動報告を姫様に提出すること。》
「……こ、これは……」
「逃げても、許しませんから」
「……っ」
アイリスがぷるぷると震えながら、それでも真剣に署名する姿を、私はにこにこしながら見守った。
*
「でも、本当に……心配だったのよ」
私は最後に、そっと彼女の手を握った。
「あなたがまた傷ついたら、わたくし……きっと、笑えなくなる」
「……ごめんなさい」
「だから、もう一人で無理をしないって、約束して」
「……はい。姫様の隣で、ずっと」
「……よろしい」
「反省タイム、終了」
私は笑って、彼女の額にそっと口づけた。
この時間が、永遠に続きますようにと願いながら──。




