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第86話 やさしい罠(芽吹月二十三日・午前)

 翌朝。


 私は、まだ完全に癒えたとは言えない身体を抱えながらも、少しだけ無理をして立ち上がった。

 どうしても、城の中を歩いて確かめておきたいことがあった。


 姫様には「動いたらお仕置きです」と釘を刺されたけれど、それでも私は、この手で確かめたかったのだ。


 あのときの戦い。

 残された傷痕。

 城内の警備の状態。


 そして、なによりも──


 私が再び、姫様の隣に立てるのかどうか。



 城の廊下は静かだった。

 陽の光が差し込む窓辺に立ち、少し息を整える。


 と、そのとき──


 「おや、もう歩けるほどに回復されたのですね」


 声をかけてきたのは、護衛隊のサブリーダー・ラズヴェルだった。

 整った顔立ちに柔らかい微笑み。

 年齢は私より少し上で、もともと礼儀正しい人物として有名な男だ。


 「無理はしていませんか? 医療室に伝える必要があれば──」


 「いえ、大丈夫です。どうしても、少しだけ歩きたかったので」


 「そうですか……お気持ちは分かります」


 その笑みは誠実そうに見えた。

 だが、私はふと気づいた。


 彼は、私の名前を呼ばなかった。


 「“アイリス”と……呼ばないんですね」


 「え?」


 「城の皆様は、私の名を姫様が与えたことをご存じのはず。なのに……」


 「……失礼しました。気を悪くなさらず」


 ラズヴェルは微笑んだまま、頭を下げた。


 ──その動作が、完璧すぎた。


 まるで、訓練された者が“人間らしさ”を模倣しているように。


 私は思わず足を引いた。


 「……申し訳ありません、もう戻ります」


 「ええ、どうかご無理はなさらず」


 別れ際の一礼。

 それすらもどこか、張り付いた仮面のようだった。



 部屋に戻るなり、私は扉を閉めて背中を預けた。


 心臓が、嫌な形で脈を打っている。


 (誰かが、見ている)

 (どこかで、何かが)


 私はまだ、狙われている。

 そんな確信が、胸の奥からせり上がってきていた。


 「……姫様には、まだ……言えない」


 今、姫様の前で心配させるわけにはいかない。

 けれど。


 この静けさの裏にある“やさしい罠”が、もう一度私を裂こうとしている──そんな気がした。



 昼過ぎ。


 私は使用人たちの控え室へ足を運んでいた。


 目的は、“情報”だった。

 

 誰かの噂。

 誰かの視線。

 誰かの、沈黙。


 「……あのラズヴェル様、最近ずっと東棟詰めで」

 「でも、警備の交代を申し出た時に断られたって話よ」

 「誰か、密会でもしてるんじゃ……って、冗談だけどね」


 冗談ではなかった。


 私の中で、確信が形を取り始めていた。

 あの男は、あの日、影にいた“誰か”と繋がっている。


 ──そう、前に私を襲った刺客は死んでいない。

 

 気配だけで、わかる。

 生きている者の“匂い”が、消えていなかった。

 それは本能に近い感覚だった。



 夕刻、私はひとつの賭けに出る。


 東棟裏の倉庫裏、小さな物置小屋。

 普段は誰も立ち寄らないその空間に、私は単独で足を運んだ。


 扉を押し開けたその瞬間──


 カシャン、と小さな金属音。

 空気の流れ。

 即座に身を低くし、影に飛び込む。


 「──やはり」


 誰かがいた。


 姿は確認できない。

 けれど、扉の裏に“何か”が隠れていた痕跡。

 踏み跡。

 微かに漂う、油と刃の匂い。


 私はゆっくりと後退しながら、目だけで部屋を探った。


 ──罠だった。


 誘い込まれたのだ、私自身の警戒心を利用して。


 再び狙われている。

 今度はもっと巧妙に、もっと静かに、もっと“優しく”。


 私はこの場を離れ、姫様の元へ戻らねばならない。

 警告を伝え、守らなければならない。


 だが同時に、私は思っていた。


 (私ひとりで、終わらせなければならないかもしれない)


 姫様を二度と泣かせないために。

 私の名を与えてくれたその人の未来を、今度こそ守るために。



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