第86話 やさしい罠(芽吹月二十三日・午前)
翌朝。
私は、まだ完全に癒えたとは言えない身体を抱えながらも、少しだけ無理をして立ち上がった。
どうしても、城の中を歩いて確かめておきたいことがあった。
姫様には「動いたらお仕置きです」と釘を刺されたけれど、それでも私は、この手で確かめたかったのだ。
あのときの戦い。
残された傷痕。
城内の警備の状態。
そして、なによりも──
私が再び、姫様の隣に立てるのかどうか。
*
城の廊下は静かだった。
陽の光が差し込む窓辺に立ち、少し息を整える。
と、そのとき──
「おや、もう歩けるほどに回復されたのですね」
声をかけてきたのは、護衛隊のサブリーダー・ラズヴェルだった。
整った顔立ちに柔らかい微笑み。
年齢は私より少し上で、もともと礼儀正しい人物として有名な男だ。
「無理はしていませんか? 医療室に伝える必要があれば──」
「いえ、大丈夫です。どうしても、少しだけ歩きたかったので」
「そうですか……お気持ちは分かります」
その笑みは誠実そうに見えた。
だが、私はふと気づいた。
彼は、私の名前を呼ばなかった。
「“アイリス”と……呼ばないんですね」
「え?」
「城の皆様は、私の名を姫様が与えたことをご存じのはず。なのに……」
「……失礼しました。気を悪くなさらず」
ラズヴェルは微笑んだまま、頭を下げた。
──その動作が、完璧すぎた。
まるで、訓練された者が“人間らしさ”を模倣しているように。
私は思わず足を引いた。
「……申し訳ありません、もう戻ります」
「ええ、どうかご無理はなさらず」
別れ際の一礼。
それすらもどこか、張り付いた仮面のようだった。
*
部屋に戻るなり、私は扉を閉めて背中を預けた。
心臓が、嫌な形で脈を打っている。
(誰かが、見ている)
(どこかで、何かが)
私はまだ、狙われている。
そんな確信が、胸の奥からせり上がってきていた。
「……姫様には、まだ……言えない」
今、姫様の前で心配させるわけにはいかない。
けれど。
この静けさの裏にある“やさしい罠”が、もう一度私を裂こうとしている──そんな気がした。
*
昼過ぎ。
私は使用人たちの控え室へ足を運んでいた。
目的は、“情報”だった。
誰かの噂。
誰かの視線。
誰かの、沈黙。
「……あのラズヴェル様、最近ずっと東棟詰めで」
「でも、警備の交代を申し出た時に断られたって話よ」
「誰か、密会でもしてるんじゃ……って、冗談だけどね」
冗談ではなかった。
私の中で、確信が形を取り始めていた。
あの男は、あの日、影にいた“誰か”と繋がっている。
──そう、前に私を襲った刺客は死んでいない。
気配だけで、わかる。
生きている者の“匂い”が、消えていなかった。
それは本能に近い感覚だった。
*
夕刻、私はひとつの賭けに出る。
東棟裏の倉庫裏、小さな物置小屋。
普段は誰も立ち寄らないその空間に、私は単独で足を運んだ。
扉を押し開けたその瞬間──
カシャン、と小さな金属音。
空気の流れ。
即座に身を低くし、影に飛び込む。
「──やはり」
誰かがいた。
姿は確認できない。
けれど、扉の裏に“何か”が隠れていた痕跡。
踏み跡。
微かに漂う、油と刃の匂い。
私はゆっくりと後退しながら、目だけで部屋を探った。
──罠だった。
誘い込まれたのだ、私自身の警戒心を利用して。
再び狙われている。
今度はもっと巧妙に、もっと静かに、もっと“優しく”。
私はこの場を離れ、姫様の元へ戻らねばならない。
警告を伝え、守らなければならない。
だが同時に、私は思っていた。
(私ひとりで、終わらせなければならないかもしれない)
姫様を二度と泣かせないために。
私の名を与えてくれたその人の未来を、今度こそ守るために。




