第85話 誰も知らない静寂(芽吹月二十二日・午後/セディル視点)
水が落ちる音だけが、石壁に反響していた。
薄暗い地下室。
燭台の火は揺らめきながら壁の影を濃くし、まるで私自身の心の内を映し出しているようだった。
「……想定より、早く動いたな」
独りごちた声は冷たく、感情の揺れひとつもなかった。
アイリス。
王女に仕える、ただの拾われ者。
なのに──ただの駒のはずだった彼女が、この計画を大きく揺らした。
彼女が死んでいればよかった?
いや。
むしろ、生き延びたことで、こちらの計画を“加速”させる理由ができた。
「人は、喪失ではなく、恐怖に動かされる」
王女が怯えていれば、それでいい。
心を乱し、正常な判断を鈍らせる。
国家の後継者が不安定になれば、政治は流動する。
その隙間にこそ、私たちの入る余地がある。
「第二の刃、すでに配置済み」
背後から声がした。
黒衣の男が、地面を這うような足音で近づく。
顔は隠されており、声も掠れたように聞こえる。
「まだ、早い」
私は言った。
「“恐れ”を育てる時間が必要だ。
王女の心に、もう一滴……“後悔”という毒を落とさねばならない」
「承知」
黒衣の影が去っていく。
その背を見送りながら、私はゆっくりと机に座り、封筒を取り出した。
それは、宮中の者の手には決して触れられない──暗号で綴られた命令書。
内容は、こうだ。
『王女の周囲にて、内部からの動揺を誘発せよ。
側近の信頼を崩し、精神の拠り所を削ぎ落とせ』
「……一番効くのは、“信じていた者の裏切り”だ」
誰だ?
誰を崩す?
誰を疑わせる?
答えはもう、決まっている。
*
「姫様、お食事の用意が整いました」
午後、王城の一角。
医療室の隣室で、姫様は小さなティーテーブルの前に座っていた。
その隣には、まだ歩くのも不自由な私。
けれど姫様は、手ずから私に皿を配り、笑顔で言った。
「今日は絶対に残しちゃだめよ? 回復メニュー、栄養たっぷりだから」
「……頑張ります」
「頑張らなくても、わたくしが食べさせてあげるわ。ほら、あーん」
「姫様!? そ、それはさすがに……!」
「ふふふ、かわいいわ、アイリス」
その笑い声が、まるで宝石のように響いた。
私は──その音を守るために、命を懸けると誓ったはずだった。
なのに、その“音”は、既に狙われている。
気づかぬまま、誰も知らぬまま、音の主を囲む円はゆっくりと染み込むように侵食されていた。
*
その夜。
王城の北棟、使われていない文書庫の一角。
誰にも気づかれず、誰にも記録されない“影”が、封筒を開いた。
中には、ひとつの名前があった。
──『カティア・シュタインベルグ』
標的が決まった。
その名を知る者こそが、王女の心を最も乱す存在。
“信頼”とは、時に最も効率の良い毒だ。
しかし、その封筒の裏には──もう一枚、紙片が挟まれていた。
『前回の“刃”は未確認のまま消息を絶つ。死亡確定に至らず』
つまり、アイリスを襲った男は死んでいない。
現在、行方不明。
そして、再利用の可能性あり──と、記されていた。
セディルはゆっくりとその紙を折り、炎にかざした。
「……ならば、再び“傷”を刻ませるとしよう」
狙うのは、再び“あの従者”。
王女の心にとって最も大切な存在。
それが傷つくことでしか、王の器は揺るがない。
第二の刃が、今、動き出す。




