第82話 目覚めの呼吸(芽吹月二十二日・早朝)
まぶたの裏に、かすかな光が差し込んでいた。
最初は夢かと思った。けれど、風の音、布の感触、微かな香の匂い──すべてが、現実だった。
私は、まだ生きている。
*
身体は重かった。脇腹の痛みはまだ鋭く、手を少し動かすだけで熱が走る。
けれど、それでも──
「……姫様……」
その名を口にした瞬間、涙がこぼれた。
私は、守れなかった。
“あの刃”を受けた瞬間の感覚が、今でも皮膚の内側に残っている。
血が吹き出して、息が詰まって、体温がどんどん抜けていった。
でも何より苦しかったのは──
あの瞬間に“終わり”を自分で選んでいたことだった。
(ここまでだ、と思ってしまった)
(姫様さえ無事なら、自分はいいと思ってしまった)
それが、いけなかった。
私は……勝手だった。
名前をもらって、立つことを許されて、選んでくれたその人を、
“また置いていこう”とした。
(また──というのは、私の過去にある)
(でも今度は、私が姫様をひとりにしようとした)
それは、裏切りだ。
あのとき姫様がくれた“存在の証明”を、自ら手放そうとした。
「……わたしは……」
何を守れなかったのか。
姫様の命?
王家の誇り?
従者としての役目?
違う。
私は、“姫様の心”を守れなかった。
私が倒れたことで、あの人が泣いた。
取り乱した。
心を痛め、声を荒げ、涙を流した。
──私は、あの人の心を壊しかけた。
どれだけの刃よりも、それがいちばん恐ろしい。
姫様は、強い。
けれど、同じくらい優しい。
優しさは、何よりも脆い。
私は、その優しさに甘えていた。
自分だけが傷ついていればいいと思っていた。
でも、それは間違いだった。
姫様が泣くくらいなら、私が十度刺された方がましだ。
*
「……生きて、いて……よかった」
そう呟いたとき、扉の向こうで誰かが動く気配がした。
ゆっくりと、柔らかな足音が近づいてくる。
私は、力の入らない腕をほんの少しだけ持ち上げる。
ノックの音。
そして。
「アイリス? 入っても、いいかしら」
その声に、涙がまた溢れた。
「……はい」
震える声で返事をすると、扉が静かに開いた。
陽の光を背に、姫様が立っていた。
変わらぬ優雅さ。
けれど、瞳の奥に浮かんでいたのは、抑えきれないほどの光だった。
「ようやく……起きたのね」
そう言って微笑んだ姫様の顔に、私は胸の奥が締め付けられる思いがした。
「申し訳、ありません……お守りできず……姫様の心まで、傷つけてしまいました……」
「それ以上謝ったら、また眠らせるわよ」
姫様は頬を膨らませてそう言うと、ベッドの横に腰を下ろした。
「よかった。生きていてくれて、本当に……」
その手が、そっと私の手を包み込んだ。
小さくて、温かくて、涙の匂いがした。
「ありがとう、アイリス」
その言葉が、何よりの褒美だった。
*
その朝の光は、とても静かだった。
この世界に初めて“自分の名”を与えられた日の光と、よく似ていた。




