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第82話 目覚めの呼吸(芽吹月二十二日・早朝)

 まぶたの裏に、かすかな光が差し込んでいた。


 最初は夢かと思った。けれど、風の音、布の感触、微かな香の匂い──すべてが、現実だった。


 私は、まだ生きている。



 身体は重かった。脇腹の痛みはまだ鋭く、手を少し動かすだけで熱が走る。

 けれど、それでも──


 「……姫様……」


 その名を口にした瞬間、涙がこぼれた。


 私は、守れなかった。

 “あの刃”を受けた瞬間の感覚が、今でも皮膚の内側に残っている。

 血が吹き出して、息が詰まって、体温がどんどん抜けていった。


 でも何より苦しかったのは──


 あの瞬間に“終わり”を自分で選んでいたことだった。


 (ここまでだ、と思ってしまった)

 (姫様さえ無事なら、自分はいいと思ってしまった)


 それが、いけなかった。

 私は……勝手だった。


 名前をもらって、立つことを許されて、選んでくれたその人を、

 “また置いていこう”とした。


 (また──というのは、私の過去にある)

 (でも今度は、私が姫様をひとりにしようとした)


 それは、裏切りだ。

 あのとき姫様がくれた“存在の証明”を、自ら手放そうとした。


 「……わたしは……」


 何を守れなかったのか。

 姫様の命?

 王家の誇り?

 従者としての役目?


 違う。

 私は、“姫様の心”を守れなかった。


 私が倒れたことで、あの人が泣いた。

 取り乱した。

 心を痛め、声を荒げ、涙を流した。


 ──私は、あの人の心を壊しかけた。


 どれだけの刃よりも、それがいちばん恐ろしい。

 姫様は、強い。

 けれど、同じくらい優しい。

 優しさは、何よりも脆い。


 私は、その優しさに甘えていた。

 自分だけが傷ついていればいいと思っていた。


 でも、それは間違いだった。

 姫様が泣くくらいなら、私が十度刺された方がましだ。



 「……生きて、いて……よかった」


 そう呟いたとき、扉の向こうで誰かが動く気配がした。


 ゆっくりと、柔らかな足音が近づいてくる。

 私は、力の入らない腕をほんの少しだけ持ち上げる。


 ノックの音。


 そして。


 「アイリス? 入っても、いいかしら」


 その声に、涙がまた溢れた。


 「……はい」


 震える声で返事をすると、扉が静かに開いた。


 陽の光を背に、姫様が立っていた。


 変わらぬ優雅さ。

 けれど、瞳の奥に浮かんでいたのは、抑えきれないほどの光だった。


 「ようやく……起きたのね」


 そう言って微笑んだ姫様の顔に、私は胸の奥が締め付けられる思いがした。


 「申し訳、ありません……お守りできず……姫様の心まで、傷つけてしまいました……」


 「それ以上謝ったら、また眠らせるわよ」


 姫様は頬を膨らませてそう言うと、ベッドの横に腰を下ろした。


 「よかった。生きていてくれて、本当に……」


 その手が、そっと私の手を包み込んだ。

 小さくて、温かくて、涙の匂いがした。


 「ありがとう、アイリス」


 その言葉が、何よりの褒美だった。



 その朝の光は、とても静かだった。

 この世界に初めて“自分の名”を与えられた日の光と、よく似ていた。



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