第81話 夜の揺り籠、眠れぬまま(芽吹月二十一日・夜/姫様視点)
夜が来ても、私は眠れなかった。
帳を下ろした部屋は、月の光を受けて白く浮かび上がっていた。
窓の外から聞こえる風の音が、ひどく遠く感じられる。
胸の奥で何かが渦を巻いていて、どうしても呼吸が浅くなる。
(落ち着きなさい)
(姫なのだから)
幾度となく自分に言い聞かせても、耳の奥には今日のあの声が残っていた。
「アイリスが倒れました」
その言葉が、ずっと頭から離れなかった。
*
私は、自分があんなふうに取り乱すとは思っていなかった。
机を叩き、書類を蹴り、侍女の声を遮って走り出した。
城の者たちはきっと、噂している。
──“姫様が、取り乱された”と。
でも、そんなことはどうでもよかった。
あのときの私は、ただ一秒でも早くアイリスのそばに行きたかっただけだった。
もしも彼女が……
もしも、あのとき間に合わなかったら──
それを考えるだけで、手が震えた。
*
アイリスの寝ている部屋には、行かなかった。
それが怖かった。
目を閉じる彼女の姿を見るたびに、意識が戻らなかったらどうしよう、という不安が膨らんでしまうから。
だから私は、自分の部屋に閉じこもった。
自分の手で鍵を閉め、誰も入ってこられないようにして。
そして、崩れるようにベッドにうずくまった。
「……また、置いていかれるのは嫌よ」
その言葉が、唇から零れ落ちた。
昔のことが、自然と浮かび上がってくる。
あの人の顔。
あの人の声。
私のそばにいた、唯一の“大人”。
彼女は優しくて、厳しくて、でも私にだけは笑ってくれて。
私は、あの人の手を、最後まで握れなかった。
──姫様が泣くなど、みっともないことです。
──姫様は、いつも堂々としていなければ。
──姫様、泣いてもいいのは、私の前だけですよ。
あの日。
私のせいで、彼女は追い出された。
私が口を滑らせたから。
私が、“姫としての在り方”に背いたから。
城の大人たちは彼女に責任を押しつけ、静かに排除した。
それを私は見ているしかなかった。
守れなかった。
どんなに泣いても、あの人は戻らなかった。
*
だから。
だからこそ。
アイリスには、絶対に同じ思いをさせたくなかった。
彼女に名を与えたのは、衝動だったかもしれない。
けれど、何も知らずにそうしたわけではない。
あのとき、彼女の目を見て、私は思った。
この子を、放っておいてはいけない。
この子は、消える側の人間じゃない。
誰にも知られず、誰にも気づかれず、ただ“いなくなっていた”と忘れられるような存在ではない。
だから、私は名を与えた。
あの子をこの世界に繋ぎ止めるために。
誰かの視界に、記憶に、存在に刻み込むために。
けれど──
それなのに。
また彼女を“失うかもしれない”という現実が、こんなにも早く突きつけられるなんて。
私は、あのときと同じように、何もできないの?
ただ手を握って、泣くだけなの?
「……違う」
私はゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に腰を下ろした。
「今度こそ、守るわ。わたくしの手で、あの子の命も、あの子の名前も、未来も……全部」
涙がまた溢れた。
でも、今度は拭わなかった。
だってそれは、弱さじゃない。
守りたいという、誓いの証だから。
*
「……ふふ、でも、目が覚めたら叱ってあげないとね」
口元をぴくりと上げて、私は独り言を続けた。
「“勝手にかばって倒れるなんて許しません”って。“自分がかわいいと思ってるの? じゃあその自信、どこから来たのか説明なさい”って──」
「……違う、違うわね……“生きててくれて、ありがとう”……まず、それを言わないと」
部屋の隅で、ロウソクの火が揺れた。
月明かりと混ざり合って、まるで誰かの寝息のように揺れている。
私はその光を見つめながら、そっとまぶたを閉じた。
「明日も、名前を呼ぶわ。何度でも。アイリス。あなたのその名前を」




