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第81話 夜の揺り籠、眠れぬまま(芽吹月二十一日・夜/姫様視点)

 夜が来ても、私は眠れなかった。


 帳を下ろした部屋は、月の光を受けて白く浮かび上がっていた。

 窓の外から聞こえる風の音が、ひどく遠く感じられる。

 胸の奥で何かが渦を巻いていて、どうしても呼吸が浅くなる。


 (落ち着きなさい)

 (姫なのだから)


 幾度となく自分に言い聞かせても、耳の奥には今日のあの声が残っていた。


 「アイリスが倒れました」


 その言葉が、ずっと頭から離れなかった。



 私は、自分があんなふうに取り乱すとは思っていなかった。

 机を叩き、書類を蹴り、侍女の声を遮って走り出した。

 城の者たちはきっと、噂している。


 ──“姫様が、取り乱された”と。


 でも、そんなことはどうでもよかった。


 あのときの私は、ただ一秒でも早くアイリスのそばに行きたかっただけだった。


 もしも彼女が……


 もしも、あのとき間に合わなかったら──


 それを考えるだけで、手が震えた。



 アイリスの寝ている部屋には、行かなかった。

 それが怖かった。

 目を閉じる彼女の姿を見るたびに、意識が戻らなかったらどうしよう、という不安が膨らんでしまうから。


 だから私は、自分の部屋に閉じこもった。

 自分の手で鍵を閉め、誰も入ってこられないようにして。


 そして、崩れるようにベッドにうずくまった。


 「……また、置いていかれるのは嫌よ」


 その言葉が、唇から零れ落ちた。


 昔のことが、自然と浮かび上がってくる。


 あの人の顔。

 あの人の声。

 私のそばにいた、唯一の“大人”。


 彼女は優しくて、厳しくて、でも私にだけは笑ってくれて。


 私は、あの人の手を、最後まで握れなかった。


 ──姫様が泣くなど、みっともないことです。


 ──姫様は、いつも堂々としていなければ。


 ──姫様、泣いてもいいのは、私の前だけですよ。


 あの日。

 私のせいで、彼女は追い出された。

 私が口を滑らせたから。

 私が、“姫としての在り方”に背いたから。


 城の大人たちは彼女に責任を押しつけ、静かに排除した。


 それを私は見ているしかなかった。


 守れなかった。


 どんなに泣いても、あの人は戻らなかった。



 だから。

 だからこそ。


 アイリスには、絶対に同じ思いをさせたくなかった。


 彼女に名を与えたのは、衝動だったかもしれない。

 けれど、何も知らずにそうしたわけではない。


 あのとき、彼女の目を見て、私は思った。


 この子を、放っておいてはいけない。

 この子は、消える側の人間じゃない。


 誰にも知られず、誰にも気づかれず、ただ“いなくなっていた”と忘れられるような存在ではない。


 だから、私は名を与えた。

 あの子をこの世界に繋ぎ止めるために。

 誰かの視界に、記憶に、存在に刻み込むために。


 けれど──

 それなのに。


 また彼女を“失うかもしれない”という現実が、こんなにも早く突きつけられるなんて。


 私は、あのときと同じように、何もできないの?

 ただ手を握って、泣くだけなの?


 「……違う」


 私はゆっくりと起き上がり、ベッドの縁に腰を下ろした。


 「今度こそ、守るわ。わたくしの手で、あの子の命も、あの子の名前も、未来も……全部」


 涙がまた溢れた。


 でも、今度は拭わなかった。

 だってそれは、弱さじゃない。

 守りたいという、誓いの証だから。



 「……ふふ、でも、目が覚めたら叱ってあげないとね」


 口元をぴくりと上げて、私は独り言を続けた。


 「“勝手にかばって倒れるなんて許しません”って。“自分がかわいいと思ってるの? じゃあその自信、どこから来たのか説明なさい”って──」


 「……違う、違うわね……“生きててくれて、ありがとう”……まず、それを言わないと」


 部屋の隅で、ロウソクの火が揺れた。

 月明かりと混ざり合って、まるで誰かの寝息のように揺れている。


 私はその光を見つめながら、そっとまぶたを閉じた。


 「明日も、名前を呼ぶわ。何度でも。アイリス。あなたのその名前を」



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