第80話 その名を呼ぶ声(芽吹月二十一日・午後/姫様視点)
アイリスが倒れた。
そう聞かされたとき、何が起きたのか、何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「……え?」
間の抜けた声を出したのは、自分でも情けなかった。
けれど、報告を告げたカティアの顔が、いつになく真剣で、そして……血の匂いがした。
「どこ?」
そう尋ねたのは、自分の意思ではなかった。
気づけば足が動いていて、椅子が音を立てて倒れ、誰かの驚きの声が背後で上がった。
「姫様、どちらへ──!」
その声も、空気も、すべてを切り裂くように私は駆けた。
脳裏には、想像してしまった光景が焼きついていた。
カティアの腕に支えられ、血に染まった彼女の姿──見たことがないはずなのに、想像するには十分すぎた。
(アイリス……お願い、やめて……)
──また、置いていかれるのは嫌よ。
*
医療室の扉が開かれる。
侍医の一人が、冷や汗を浮かべて言う。
「姫様、お控えください──!」
……控えろですって?
「誰が控えるものですかッ!!」
勢いよく突き進んだ拍子に、侍医の腕をひらりとすり抜け、白衣のすそを踏みつけて転ばせてしまった。
「きゃああ!? か、回復の主柱が!」
「治せる者は転んでも治せるでしょう!!」
それどころじゃないのよ。
その先に、彼女がいた。
白いベッド。
まるで氷のように白く、静かで、冷たい空間。
そこに、彼女は横たわっていた。
「アイリス……」
呼ぶ声は、まるで風のようにかすれた。
頬は青く、脇腹には分厚い包帯。
唇は震えていて、まるで別人のように小さくなっていた。
(こんなの、嘘でしょ……)
震える指で、彼女の手に触れた。
冷たい。
でも、まだ生きてる。
「なんで……なんで、私より先に血を流してるのよ……!」
涙が溢れた。
おかしい。泣くのは苦手だったはずなのに、涙は止まらなかった。
「名前をあげたの、私なのよ。なのに……呼んでも返事がないなんて……」
必死に笑おうとして、喉が詰まった。
「な、なんなら今からまた名付け直してあげてもいいのよ?
“イリスちゃん”とか、“リッちゃん”とか、“姫様のかわいいもちもち従者さん”とか──」
「……ひ、め……さま……」
かすれた声が、私の名を呼んだ。
「アイリス……!」
顔を上げると、彼女の瞳が微かに揺れていた。
「生きてる……っ、生きてるのね……っ!」
涙も鼻水もぐしゃぐしゃで、でもそんなことはどうでもよかった。
私は笑いながら、泣きながら、彼女の手を握りしめた。
「生きてるなら叱ってあげるんだから! どうして一人で突っ込んだのよ! どうして私を置いて死にかけてるのよ!」
「うぅ……わたくし、か、かばっただけで……」
「知ってる! でも! 知ってるから怒ってるのよ!!」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
ただ、ただ、彼女が動いたこと。
名前を呼んでくれたこと。
それが、嬉しかった。
*
「ねえ、聞いて、アイリス」
彼女の手をそっと包みながら、私はささやいた。
「……忘れてると思ってた? あなたに名前をあげたあの日のこと」
「え……」
「忘れるわけないじゃない。あの時から、あなたは、私が初めて“選んだ人”なのよ」
アイリスの目が、大きく見開かれた。
そして、また涙を浮かべていた。
「だから、お願い……」
私はその額に、そっと口づけた。
「もう一度、わたくしの従者に戻って」
「はい……姫様」
その言葉が、何よりの“返事”だった。
そして私は心に誓った。
──この名を、今度は私が守る。
彼女がこの名を誇れるように。
彼女がこの世界で、生きる意味を忘れないように。
名を与えた者として。
彼女の“姫”として。
私は、すべてを背負って戦う。




