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第80話 その名を呼ぶ声(芽吹月二十一日・午後/姫様視点)

 アイリスが倒れた。


 そう聞かされたとき、何が起きたのか、何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


 「……え?」


 間の抜けた声を出したのは、自分でも情けなかった。

 けれど、報告を告げたカティアの顔が、いつになく真剣で、そして……血の匂いがした。


 「どこ?」


 そう尋ねたのは、自分の意思ではなかった。

 気づけば足が動いていて、椅子が音を立てて倒れ、誰かの驚きの声が背後で上がった。


 「姫様、どちらへ──!」


 その声も、空気も、すべてを切り裂くように私は駆けた。


 脳裏には、想像してしまった光景が焼きついていた。

 カティアの腕に支えられ、血に染まった彼女の姿──見たことがないはずなのに、想像するには十分すぎた。


 (アイリス……お願い、やめて……)


 ──また、置いていかれるのは嫌よ。



 医療室の扉が開かれる。

 侍医の一人が、冷や汗を浮かべて言う。


 「姫様、お控えください──!」


 ……控えろですって?


 「誰が控えるものですかッ!!」


 勢いよく突き進んだ拍子に、侍医の腕をひらりとすり抜け、白衣のすそを踏みつけて転ばせてしまった。


 「きゃああ!? か、回復の主柱が!」


 「治せる者は転んでも治せるでしょう!!」


 それどころじゃないのよ。


 その先に、彼女がいた。


 白いベッド。

 まるで氷のように白く、静かで、冷たい空間。


 そこに、彼女は横たわっていた。


 「アイリス……」


 呼ぶ声は、まるで風のようにかすれた。


 頬は青く、脇腹には分厚い包帯。

 唇は震えていて、まるで別人のように小さくなっていた。


 (こんなの、嘘でしょ……)


 震える指で、彼女の手に触れた。

 冷たい。

 でも、まだ生きてる。


 「なんで……なんで、私より先に血を流してるのよ……!」


 涙が溢れた。

 おかしい。泣くのは苦手だったはずなのに、涙は止まらなかった。


 「名前をあげたの、私なのよ。なのに……呼んでも返事がないなんて……」


 必死に笑おうとして、喉が詰まった。


 「な、なんなら今からまた名付け直してあげてもいいのよ?

  “イリスちゃん”とか、“リッちゃん”とか、“姫様のかわいいもちもち従者さん”とか──」


 「……ひ、め……さま……」


 かすれた声が、私の名を呼んだ。


 「アイリス……!」


 顔を上げると、彼女の瞳が微かに揺れていた。


 「生きてる……っ、生きてるのね……っ!」


 涙も鼻水もぐしゃぐしゃで、でもそんなことはどうでもよかった。

 私は笑いながら、泣きながら、彼女の手を握りしめた。


 「生きてるなら叱ってあげるんだから! どうして一人で突っ込んだのよ! どうして私を置いて死にかけてるのよ!」


 「うぅ……わたくし、か、かばっただけで……」


 「知ってる! でも! 知ってるから怒ってるのよ!!」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。

 ただ、ただ、彼女が動いたこと。

 名前を呼んでくれたこと。

 それが、嬉しかった。



 「ねえ、聞いて、アイリス」


 彼女の手をそっと包みながら、私はささやいた。


 「……忘れてると思ってた? あなたに名前をあげたあの日のこと」


 「え……」


 「忘れるわけないじゃない。あの時から、あなたは、私が初めて“選んだ人”なのよ」


 アイリスの目が、大きく見開かれた。

 そして、また涙を浮かべていた。


 「だから、お願い……」


 私はその額に、そっと口づけた。


 「もう一度、わたくしの従者に戻って」


 「はい……姫様」


 その言葉が、何よりの“返事”だった。


 そして私は心に誓った。


 ──この名を、今度は私が守る。


 彼女がこの名を誇れるように。

 彼女がこの世界で、生きる意味を忘れないように。


 名を与えた者として。

 彼女の“姫”として。


 私は、すべてを背負って戦う。



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