第8話 紅茶会はじまって以来の事件(王城歴1349年 春月二十九日)
春月二十九日。東庭に入った瞬間、私は思わず立ち止まった。
「……何か、変です」
いつもなら姫様は花壇の縁に静かに座っている。けれど今日は、木陰にしゃがみ込んで何かと格闘していた。
「姫様……? どうなさいましたか」
「アイリス! 来てくれてよかった! ……ちょっと手、貸して!」
近寄って見ると、そこには倒れかけた木の枝、バラの茂み、その隣でべしゃっと潰れたらしい紅茶ポットの破片があった。
「……お怪我は」
「してないしてない、平気平気! ……ただ、ちょっと戦っただけ」
「戦った……?」
「紅茶ポットがね、反逆したのよ。ふふ、見事な造反だったわ……」
「つまり、落とされたんですね」
「うっ……それはその、うっかり、っていうか、ちょっと鳥がバサッてきたのよ!」
姫様の頭には、枝に引っかかった小さな葉っぱが数枚。確かにそれなりに激しい現場だったようだ。
「本日分の紅茶は……」
「壊滅しました」
「……そうですか」
私はすっと腰を落とし、破片の片付けを手伝い始めた。
「ごめんね、せっかくの紅茶会なのに……っていうか、今回はもう“紅茶レス会”ね」
「お茶会なのに、お茶がないのですか」
「じゃあ今日は、会話メインで! ……って言っても、アイリスあんまり喋ってくれないけど」
「それでも、姫様は話してくださいますから」
「……それ、ちょっと照れるからやめて」
ぽつぽつと会話を交わしながら、ふたりで木陰に座った。 紅茶がない分、会話が増える。 それは思いがけず、いつもよりも深い話につながった。
「アイリスってさ、自分の話をしないけど……昔、何してたの?」
「……記憶が曖昧なのです」
「え、記憶喪失とか?」
「いえ。ただ、“以前のこと”は、あまり思い出したくないだけです」
「……そっか」
一瞬の沈黙。
けれど姫様は、すぐに調子を戻したように微笑む。
「じゃあさ、今日の話にしよう。朝は何食べたの?」
「焼いたパンと、菜のスープ。それから、ほんの少しの干し果実」
「それ、メニューまで私より豪華なんだけど!」
「姫様は……?」
「朝抜き!」
「……それはよくありません」
「だって、紅茶落としてテンション下がって……なんかもう……」
「次回は、私が紅茶を持参いたします」
「……ほんとに?」
「もちろんです」
姫様の目が少しだけ潤んだ気がして、私は目を逸らした。
「じゃあ、次回予告! “第一回・アイリス紅茶会”開幕ね!」
「“第一回”にしてはだいぶ急ですが……」
「いいの、思いついたらすぐやるのが情熱ってやつよ!」
笑い声と、春の風と、少しの騒動。 それが、今日の東庭を彩っていた。