第79話 その名をもらう前に(芽吹月二十一日・意識の底)
──私は今、夢の中にいるのだろうか。
いや、違う。これは夢ではない。
意識の底、言葉も記憶もまだ曖昧な暗がり。
だけど、確かにそこには“私”がいた。
名前もない、何者でもなかったころの──私。
*
空が灰色だったのか、私の目がそう見えていたのかは分からない。
生まれてからずっと、灰色の天井と、冷たい床と、乾いた空腹だけが日常だった。
「そこ、早く運べ」
「口答えするな」
「黙ってろ」
命令だけが、私の存在理由だった。
逆らわなければ、水が与えられた。
うなずけば、ほんの一切れの干し肉をもらえた。
隣にいた子は、数日前にいなくなった。
「いらなくなった」と言われて。
泣きも叫びもせずに、ただ“連れて行かれた”。
戻ってきた子はいない。
次は、きっと自分だ。
だから私は、息をひそめ、目立たず、
言われたとおりに運び、持ち、並べ、ひざまずいた。
そうすれば、生きられる。
生きている限り、“次”は来るかもしれないから。
いや、“死なない限り、誰かに見つけてもらえるかもしれない”。
その微かな希望だけが、私を人間でいさせていた。
*
それでも、人として扱われたことはなかった。
冬は倉庫の隅で眠り、夏は蝿の這う床で横になった。
咳をしたら殴られた。
生理が来た日は水桶を与えられず、汚れたまま仕事を続けた。
そんな日々の中、私は“感じない”という選択を覚えた。
痛みも、寒さも、臭いも、飢えも──感じなければ、死なずに済む。
ある夜、口をきかなくなった子がいた。
彼女は私より一つ年上で、静かで、よく手伝ってくれた。
だが数日後、奥の部屋に呼ばれた。
誰かが言った。「壊れた」と。
戻ってきたのは、泥だらけの靴にこびりついた血の跡だった。
何が起きたかは、聞かなくてもわかった。
私はその夜、眠らなかった。
眠れば、夢に出てくる気がしたから。
*
そして“次”が来たのは、ある日のことだった。
「今日から、これを城へ届ける」
何箱もの書簡と、小さな木箱。
私の担当は、その“荷物”の運搬。
特に重要なのは“間違えずに置くこと”。
小さな過ちで、爪を剥がされた子もいた。
私は恐怖で手が震えないよう、指先に力を込めた。
初めて、王城の廊下を歩いた。
高い天井。光る床。きれいな布をまとった人たちが、私を見た。
けれど、誰も私に声はかけなかった。
私の顔など、見てもいなかった。
──ただひとり。
「……あなた」
その声だけが、まるで違った。
立ち止まってはいけなかった。
でも、私は足を止めた。
その人は、陽光のように髪を揺らす少女だった。
ドレスの裾が揺れ、瞳はまっすぐに私を捉えていた。
「あなた、名前は?」
私は答えなかった。
答えてはいけない。
名前など、もともとないのだから。
「じゃあ、わたくしが名をあげる」
彼女はそう言って、屈んだ。
「今日から、あなたは──アイリスよ」
意味など、理解できなかった。
けれど、口にされたその響きが、胸に落ちた。
「アイリス。何度でも呼ぶわ。だから忘れないで」
私はそのとき、ただ立ち尽くしていた。
頭を下げることも、言葉を返すこともできなかった。
けれど、確かに思った。
──この名が欲しい。
いつか、この名にふさわしい自分になりたい、と。
*
それからの日々は、すべてが初めてだった。
朝、陽が差し込む部屋で目を覚ますこと。
食器の上に並んだ温かな食事。
手を洗い、口をゆすぎ、誰かと目を合わせる。
私は、王城の“臨時奉仕役”として、試験的に雇用された。
名前をもらったおかげだった。
あの名が記録に残ったことで、私は“制度の中に入る”ことができたのだ。
他の使用人たちからは、最初は奇異の目で見られた。
けれど私は必死だった。
礼儀を覚え、箒を正しく使い、靴の並べ方を練習した。
何度も失敗し、何度も叱られた。
けれど、ある日。
「……ありがとう、アイリス」
その人が、私の名を呼んでくれた。
あの人が。
名を与えただけでなく、それを“覚えていてくれた”。
私は、その瞬間に誓ったのだ。
──この人に、仕えたい。
──この人のために、命を使いたい。
誰よりも高貴で、誰よりも優しい人。
その隣に立てる自分に、なりたいと願った。
*
「……ああ、だから……」
薄れゆく記憶の中で、私は微かに呟いた。
「だから、わたくしは……姫様のために……」
名前も、居場所も、ぬくもりも。
すべてをくれた、あの人のために。
私は戦う。
何度でも、立ち上がる。
たとえ血を流しても。
命が削れても。
──その名を守るために。
その光を、再び見上げるために。




