表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
79/100

第79話 その名をもらう前に(芽吹月二十一日・意識の底)

 ──私は今、夢の中にいるのだろうか。


 いや、違う。これは夢ではない。

 意識の底、言葉も記憶もまだ曖昧な暗がり。

 だけど、確かにそこには“私”がいた。


 名前もない、何者でもなかったころの──私。



 空が灰色だったのか、私の目がそう見えていたのかは分からない。

 生まれてからずっと、灰色の天井と、冷たい床と、乾いた空腹だけが日常だった。


 「そこ、早く運べ」

 「口答えするな」

 「黙ってろ」


 命令だけが、私の存在理由だった。

 逆らわなければ、水が与えられた。

 うなずけば、ほんの一切れの干し肉をもらえた。


 隣にいた子は、数日前にいなくなった。

 「いらなくなった」と言われて。

 泣きも叫びもせずに、ただ“連れて行かれた”。

 戻ってきた子はいない。


 次は、きっと自分だ。


 だから私は、息をひそめ、目立たず、

 言われたとおりに運び、持ち、並べ、ひざまずいた。


 そうすれば、生きられる。

 生きている限り、“次”は来るかもしれないから。


 いや、“死なない限り、誰かに見つけてもらえるかもしれない”。

 その微かな希望だけが、私を人間でいさせていた。



 それでも、人として扱われたことはなかった。


 冬は倉庫の隅で眠り、夏は蝿の這う床で横になった。

 咳をしたら殴られた。

 生理が来た日は水桶を与えられず、汚れたまま仕事を続けた。


 そんな日々の中、私は“感じない”という選択を覚えた。

 痛みも、寒さも、臭いも、飢えも──感じなければ、死なずに済む。


 ある夜、口をきかなくなった子がいた。

 彼女は私より一つ年上で、静かで、よく手伝ってくれた。

 だが数日後、奥の部屋に呼ばれた。

 誰かが言った。「壊れた」と。


 戻ってきたのは、泥だらけの靴にこびりついた血の跡だった。

 何が起きたかは、聞かなくてもわかった。


 私はその夜、眠らなかった。

 眠れば、夢に出てくる気がしたから。



 そして“次”が来たのは、ある日のことだった。


 「今日から、これを城へ届ける」


 何箱もの書簡と、小さな木箱。

 私の担当は、その“荷物”の運搬。

 特に重要なのは“間違えずに置くこと”。


 小さな過ちで、爪を剥がされた子もいた。

 私は恐怖で手が震えないよう、指先に力を込めた。


 初めて、王城の廊下を歩いた。

 高い天井。光る床。きれいな布をまとった人たちが、私を見た。

 けれど、誰も私に声はかけなかった。


 私の顔など、見てもいなかった。


 ──ただひとり。


 「……あなた」


 その声だけが、まるで違った。


 立ち止まってはいけなかった。

 でも、私は足を止めた。


 その人は、陽光のように髪を揺らす少女だった。

 ドレスの裾が揺れ、瞳はまっすぐに私を捉えていた。


 「あなた、名前は?」


 私は答えなかった。

 答えてはいけない。

 名前など、もともとないのだから。


 「じゃあ、わたくしが名をあげる」


 彼女はそう言って、屈んだ。


 「今日から、あなたは──アイリスよ」


 意味など、理解できなかった。

 けれど、口にされたその響きが、胸に落ちた。


 「アイリス。何度でも呼ぶわ。だから忘れないで」


 私はそのとき、ただ立ち尽くしていた。

 頭を下げることも、言葉を返すこともできなかった。


 けれど、確かに思った。

 ──この名が欲しい。


 いつか、この名にふさわしい自分になりたい、と。



 それからの日々は、すべてが初めてだった。


 朝、陽が差し込む部屋で目を覚ますこと。

 食器の上に並んだ温かな食事。

 手を洗い、口をゆすぎ、誰かと目を合わせる。


 私は、王城の“臨時奉仕役”として、試験的に雇用された。

 名前をもらったおかげだった。

 あの名が記録に残ったことで、私は“制度の中に入る”ことができたのだ。


 他の使用人たちからは、最初は奇異の目で見られた。

 けれど私は必死だった。

 礼儀を覚え、箒を正しく使い、靴の並べ方を練習した。

 何度も失敗し、何度も叱られた。


 けれど、ある日。


 「……ありがとう、アイリス」


 その人が、私の名を呼んでくれた。

 あの人が。


 名を与えただけでなく、それを“覚えていてくれた”。


 私は、その瞬間に誓ったのだ。


 ──この人に、仕えたい。

 ──この人のために、命を使いたい。


 誰よりも高貴で、誰よりも優しい人。

 その隣に立てる自分に、なりたいと願った。



 「……ああ、だから……」


 薄れゆく記憶の中で、私は微かに呟いた。


 「だから、わたくしは……姫様のために……」


 名前も、居場所も、ぬくもりも。

 すべてをくれた、あの人のために。


 私は戦う。

 何度でも、立ち上がる。


 たとえ血を流しても。

 命が削れても。


 ──その名を守るために。

 その光を、再び見上げるために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ