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第78話 血の証明(芽吹月二十一日・午後)

 ──異変に気づいたのは、一瞬だった。


 政務室に戻ろうとした私の耳に、鋭い金属音が届いた。

 その音に含まれた圧と殺気。

 すぐに理解する。


 (カティアさんが……!)


 私は走った。

 重ね着のスカートが翻り、風が視界を切る。

 誰かの命が、今まさに失われようとしている──そう確信できる殺気だった。



 廊下の角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは、斜めに崩れた装飾棚と、壁際に立つカティア。

 そして──その前に立ちはだかる、黒装束の刺客。


 「カティアさん、下がってください!」


 私は跳び込むように間合いに入った。

 右手の短剣を抜き、左腕でカティアを庇うように押し返す。


 相手の動きは異様に滑らかだった。

 戦い慣れている。躊躇がない。無駄がない。


 刺客の刃が、真正面から私へと迫ってきた。

 気配を殺すどころか、あえて“殺す気”を前面に押し出してくるような殺意。


 (……斬撃を誘って、下から回り込む……)


 瞬間的に判断し、私は身体を捻った。

 だが──遅かった。


 「──ッ!」


 重い衝撃。

 左の脇腹。鋭く、深く、熱を奪う感触。


 刃が滑り込み、肉が裂ける感覚。


 痛みは、一呼吸遅れてやってくる。

 その瞬間に広がる血の温もりだけが、今ここが“現実”だと知らせていた。


 だが、怯んでいる暇はない。


 私は反撃に出た。


 短剣を握り直し、刃の裏を使って相手の手首を打つ。

 相手は反射的に引いたが、その瞬間、私は右膝で下からの蹴りを加えた。


 体勢を崩した相手に対し、左手で持っていた予備の短剣を投げつける。

 命中はしなかったが、肩をかすめて外套を裂いた。


 (この相手……まだ“本気”じゃない)


 それがわかっただけで、全身に冷や汗が浮いた。


 「影刃か……」


 私は思わず呟いた。


 伝説じみた、無名の暗殺部隊の名。

 名も階級も持たぬ殺し屋たち──ただ任務だけをこなす、“人間という器”だけの存在。


 その一人が、今、私たちを狙っている。


 「……ありがとう、アイリス」


 背後から、カティアの声。


 「あとで叱ってください……でも、間に合ってよかった……」


 足元がふらつく。

 鮮血が床に滴る。


 私は膝をつき、壁に片手をついた。

 視界の端で、カティアが叫びながら支えに入ってくるのが見えた。


 「誰か──!治療班! 急げ!!」



 ──血の匂いが、私の鼻をつく。

 どこか懐かしい感覚。けれど、懐かしいと思うには、あまりにも冷たくて、痛くて、悔しい。


 「姫様を……守れたなら、それで……」


 そう呟いた声が、自分のものなのかどうかもわからなかった。


 意識が落ちていくなか、私はただ、姫様の名を心の中で呼んでいた。



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