第78話 血の証明(芽吹月二十一日・午後)
──異変に気づいたのは、一瞬だった。
政務室に戻ろうとした私の耳に、鋭い金属音が届いた。
その音に含まれた圧と殺気。
すぐに理解する。
(カティアさんが……!)
私は走った。
重ね着のスカートが翻り、風が視界を切る。
誰かの命が、今まさに失われようとしている──そう確信できる殺気だった。
*
廊下の角を曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは、斜めに崩れた装飾棚と、壁際に立つカティア。
そして──その前に立ちはだかる、黒装束の刺客。
「カティアさん、下がってください!」
私は跳び込むように間合いに入った。
右手の短剣を抜き、左腕でカティアを庇うように押し返す。
相手の動きは異様に滑らかだった。
戦い慣れている。躊躇がない。無駄がない。
刺客の刃が、真正面から私へと迫ってきた。
気配を殺すどころか、あえて“殺す気”を前面に押し出してくるような殺意。
(……斬撃を誘って、下から回り込む……)
瞬間的に判断し、私は身体を捻った。
だが──遅かった。
「──ッ!」
重い衝撃。
左の脇腹。鋭く、深く、熱を奪う感触。
刃が滑り込み、肉が裂ける感覚。
痛みは、一呼吸遅れてやってくる。
その瞬間に広がる血の温もりだけが、今ここが“現実”だと知らせていた。
だが、怯んでいる暇はない。
私は反撃に出た。
短剣を握り直し、刃の裏を使って相手の手首を打つ。
相手は反射的に引いたが、その瞬間、私は右膝で下からの蹴りを加えた。
体勢を崩した相手に対し、左手で持っていた予備の短剣を投げつける。
命中はしなかったが、肩をかすめて外套を裂いた。
(この相手……まだ“本気”じゃない)
それがわかっただけで、全身に冷や汗が浮いた。
「影刃か……」
私は思わず呟いた。
伝説じみた、無名の暗殺部隊の名。
名も階級も持たぬ殺し屋たち──ただ任務だけをこなす、“人間という器”だけの存在。
その一人が、今、私たちを狙っている。
「……ありがとう、アイリス」
背後から、カティアの声。
「あとで叱ってください……でも、間に合ってよかった……」
足元がふらつく。
鮮血が床に滴る。
私は膝をつき、壁に片手をついた。
視界の端で、カティアが叫びながら支えに入ってくるのが見えた。
「誰か──!治療班! 急げ!!」
*
──血の匂いが、私の鼻をつく。
どこか懐かしい感覚。けれど、懐かしいと思うには、あまりにも冷たくて、痛くて、悔しい。
「姫様を……守れたなら、それで……」
そう呟いた声が、自分のものなのかどうかもわからなかった。
意識が落ちていくなか、私はただ、姫様の名を心の中で呼んでいた。




