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第75話 かつての影、いまの灯(芽吹月二十日・午後)

 王都南部、旧第三区画──


 城の華やかさとは対照的に、この一帯には時間が止まったような空気が漂っていた。  石畳は崩れ、看板の外れた商店跡が並ぶ。  人気もほとんどなく、通る人の足音すら遠く感じられた。


 姫様はフード付きの外套に身を包み、そっと私の隣を歩いている。  いつもと変わらぬ気品を纏いながらも、その視線は時折、この街の一角にじっと留まっていた。


 「……ここが、あの区画?」


 「はい。昔、ここで暮らしていました」


 私が足を止めたのは、半分ほど崩れた石壁の向こうにある、かつての住処の入り口だった。  崩れかけた扉。その奥に、過去の私が確かにいた。



 ──まだ、名前すらなかった頃。


 私はこの区画の外れにある、古い倉庫の一室で生きていた。  小さな仕事の手伝い、道具の運搬、使い走り。  それが当たり前の日々だった。


 周囲の大人たちは口をそろえて言っていた。


 「何も聞くな、何も話すな。見たことは忘れろ」


 私は頷くだけだった。  そうしないと、ここでは生きていけなかったから。


 何かを選ぶことも、疑うことも許されなかった。  私はただ、その日を終えるために指示を受け、動いていた。  失敗すれば殴られ、口答えすれば食事を抜かれた。


 けれど、耐えられた。  痛みや飢えよりも、“居場所を失う”ことの方が怖かったから。



 あの日。  倉庫の裏で荷を積み下ろししていた男たちが、慌てて布をかけて隠した箱。  ちらりと見えた“紋章”が、今も脳裏に焼きついている。


 オルグ・トゥリム商会──  その名は、その時の私にとって何の意味もなかった。  ただ“見てはいけないもの”だと、直感でわかった。


 けれど今、姫様を通して繋がった情報と共に、その印が浮かび上がる。  そうか、私はあの頃から“あの渦”の傍にいたのだ。



 「当時は、それがどういうものか知りませんでした」


 私は姫様に向き直り、静かに言った。


 「でも今、あの印を見た瞬間に、すべてが繋がりました。ここから流れていたのです」


 姫様は言葉を返さなかった。  けれど、その目が私をまっすぐに捉えていた。  拒絶でも、同情でもない。  ただ──“信頼”だけが、そこにあった。


 そしてその視線には、わずかに“懐かしさ”が混ざっていた気がした。



 「わたくし、名を持たずにここで暮らしていました」


 不意に、言葉がこぼれた。


 「名は、記録につながる。だから、与えられなかったのです」


 「それって……」


 「はい。必要がなくなれば、簡単に“処理”される存在ということです」


 姫様の手が、少しだけ震えたのを見た。


 「けれど、私は生き延びました。ある日、王城の書簡運搬の臨時要員に呼ばれたのです」


 「そこから、変わったのね」


 「はい。姫様に会い、名を与えられた。それが、今の私のすべてです」


 私がその言葉を口にしたとき、姫様の表情が一瞬、揺れた。


 けれどすぐに微笑むと、視線を少しだけ逸らした。


 ──気づいていたのかもしれない。いえ、最初から──



 夕暮れが近づく頃。  私は一軒の廃屋の前で立ち止まった。


 「……ここです」


 「ここが、あなたのいた場所?」


 「はい。生きるための場所でした」


 私は扉に手をかけ、少しだけ開けてみた。  埃と錆のにおい。懐かしさではなく、冷たい過去の記憶が押し寄せる。


 中には、壊れた椅子と薄い布団の残骸が転がっていた。  夜を越すには充分で、明日を夢見るには足りなかった場所。


 「けれど今は、違います。私はもう“ここ”にはいません」


 姫様の手が、そっと私の肩に触れた。


 「アイリス。ありがとう。……来てくれて」


 「いえ。姫様にお仕えしているから、来られたのです」


 この場所が“始まり”だとするなら、  今、隣にいるこの人こそが“私の選んだ未来”だ。


 そう思えたことが、少しだけ誇らしかった。




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