第75話 かつての影、いまの灯(芽吹月二十日・午後)
王都南部、旧第三区画──
城の華やかさとは対照的に、この一帯には時間が止まったような空気が漂っていた。 石畳は崩れ、看板の外れた商店跡が並ぶ。 人気もほとんどなく、通る人の足音すら遠く感じられた。
姫様はフード付きの外套に身を包み、そっと私の隣を歩いている。 いつもと変わらぬ気品を纏いながらも、その視線は時折、この街の一角にじっと留まっていた。
「……ここが、あの区画?」
「はい。昔、ここで暮らしていました」
私が足を止めたのは、半分ほど崩れた石壁の向こうにある、かつての住処の入り口だった。 崩れかけた扉。その奥に、過去の私が確かにいた。
*
──まだ、名前すらなかった頃。
私はこの区画の外れにある、古い倉庫の一室で生きていた。 小さな仕事の手伝い、道具の運搬、使い走り。 それが当たり前の日々だった。
周囲の大人たちは口をそろえて言っていた。
「何も聞くな、何も話すな。見たことは忘れろ」
私は頷くだけだった。 そうしないと、ここでは生きていけなかったから。
何かを選ぶことも、疑うことも許されなかった。 私はただ、その日を終えるために指示を受け、動いていた。 失敗すれば殴られ、口答えすれば食事を抜かれた。
けれど、耐えられた。 痛みや飢えよりも、“居場所を失う”ことの方が怖かったから。
*
あの日。 倉庫の裏で荷を積み下ろししていた男たちが、慌てて布をかけて隠した箱。 ちらりと見えた“紋章”が、今も脳裏に焼きついている。
オルグ・トゥリム商会── その名は、その時の私にとって何の意味もなかった。 ただ“見てはいけないもの”だと、直感でわかった。
けれど今、姫様を通して繋がった情報と共に、その印が浮かび上がる。 そうか、私はあの頃から“あの渦”の傍にいたのだ。
*
「当時は、それがどういうものか知りませんでした」
私は姫様に向き直り、静かに言った。
「でも今、あの印を見た瞬間に、すべてが繋がりました。ここから流れていたのです」
姫様は言葉を返さなかった。 けれど、その目が私をまっすぐに捉えていた。 拒絶でも、同情でもない。 ただ──“信頼”だけが、そこにあった。
そしてその視線には、わずかに“懐かしさ”が混ざっていた気がした。
*
「わたくし、名を持たずにここで暮らしていました」
不意に、言葉がこぼれた。
「名は、記録につながる。だから、与えられなかったのです」
「それって……」
「はい。必要がなくなれば、簡単に“処理”される存在ということです」
姫様の手が、少しだけ震えたのを見た。
「けれど、私は生き延びました。ある日、王城の書簡運搬の臨時要員に呼ばれたのです」
「そこから、変わったのね」
「はい。姫様に会い、名を与えられた。それが、今の私のすべてです」
私がその言葉を口にしたとき、姫様の表情が一瞬、揺れた。
けれどすぐに微笑むと、視線を少しだけ逸らした。
──気づいていたのかもしれない。いえ、最初から──
*
夕暮れが近づく頃。 私は一軒の廃屋の前で立ち止まった。
「……ここです」
「ここが、あなたのいた場所?」
「はい。生きるための場所でした」
私は扉に手をかけ、少しだけ開けてみた。 埃と錆のにおい。懐かしさではなく、冷たい過去の記憶が押し寄せる。
中には、壊れた椅子と薄い布団の残骸が転がっていた。 夜を越すには充分で、明日を夢見るには足りなかった場所。
「けれど今は、違います。私はもう“ここ”にはいません」
姫様の手が、そっと私の肩に触れた。
「アイリス。ありがとう。……来てくれて」
「いえ。姫様にお仕えしているから、来られたのです」
この場所が“始まり”だとするなら、 今、隣にいるこの人こそが“私の選んだ未来”だ。
そう思えたことが、少しだけ誇らしかった。




