第71話 守りたいものが、ここにある(芽吹月十七日・早朝)
朝焼けが、東の空をほんのりと染めていた。 私は姫様の私室の扉の内側、窓際の椅子に腰かけたまま、静かにその色を眺めていた。
一晩中、眠らなかった。 けれど不思議と、疲労感はない。 それどころか、胸の奥には妙な清明さが広がっていた。
部屋の中は静かだった。 暖炉の火は既に落ち、昨夜の残り香だけが淡く漂っている。
私は、その香りとともに、姫様の寝顔をそっと見つめた。
(この人の命が、昨夜、確かに狙われた)
その現実が、いまだ夢のように信じがたく、同時に身の内に確かな爪痕を残している。
*
夜が明ける直前。 私は一度、城内の見回りに立った。 それは“付き人”としての職務ではなく、ただの個人的な確認だった。
各扉の鍵、警備の配置、巡回ルートの確認。 些細な見落としが、命取りになりうる。
「……少しでも、不自然なものはないか」
昨日の件で、私は今までの“日常”を信用しすぎていたと痛感していた。
その間にも、夜はゆっくりと明けていく。 東の空が白み、廊下にほんのりと朝の冷気が差し込む。
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姫様の目覚めよりも早く、私は茶葉の調合に入った。
(“黎明の盾”──今のわたくしにできる、最初の祈り)
名もなき香草を少量、普段は使わない花の葉を加える。 昨日の“毒”を跳ね除けるように、守るための香りを重ねていく。
手は丁寧に、心は静かに。 けれど、指先はほんの僅かに震えていた。
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「……アイリス?」
その声に、私は振り返る。 姫様がベッドからゆっくりと体を起こしていた。
「おはようございます。まだ少し早いですが……お目覚めになられましたか」
「ええ……あなたの気配で、目が覚めたの」
私は、そっと微笑む。
「本日の紅茶は、“黎明の盾”と名付けました」
「……素敵な名前」
「お口に合えば幸いです」
カップを差し出すと、姫様は香りを確かめて目を細めた。
「……やさしいけど、芯がある。そんな味がする」
「……まさに、姫様に差し上げたいものです」
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ふたりで静かにカップを傾ける。 その時間は、昨日とは比べものにならないほど濃く、重い意味を帯びていた。
姫様はふと、窓の外を見ながら呟いた。
「……これからも、こういうことが続くのかしら」
私は一瞬言葉を探して、ゆっくりと答えた。
「可能性は、否定できません」
「そうよね」
「ですが、それでも……わたくしが姫様の盾となります」
姫様は驚いたように私を見た。 その目には、わずかな不安と、同時に期待が浮かんでいた。
「あなたがそばにいるなら……わたしは、大丈夫な気がする」
「ありがとうございます」
*
支度を整えたあと、私は政務室へ同行する準備をしていた。 そのとき、カレンが廊下で声をかけてきた。
「アイリス様。本日は、姫様のそばを片時も離れぬよう命じられております」
「はい。承知しております」
「加えて、警備局より“対象と近接者に警告が及ぶ可能性あり”との報告が出ています」
私は、そこで一拍置いた。
「つまり、わたくしも狙われる可能性があると」
カレンは静かに頷いた。
「……ですが、それは承知の上でしょう」
「ええ」
わずかに目を細めたカレンの表情は、どこか複雑だった。 警戒、懸念、そして、信頼。
私はそのすべてを受け止めて、深く頷いた。
*
政務室へ向かう道すがら、姫様はふと足を止めた。 振り返って、私の手を取る。
「今日一日。そばにいてね」
「はい。命をかけて、お守りします」
「……ありがとう」
その手のぬくもりが、私の胸の奥に静かに染み込んだ。
ふたり分の時間。 それがどれほど重く、どれほどかけがえのないものか。
この手で、何度でも守る。 それが、わたしの“誓い”だから。




