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第70話 毒を裂く香り(芽吹月十六日・午後)

 午後の陽射しがやさしく差し込む姫様の私室。  いつものように、私は紅茶の準備をしていた。


 けれど、その日だけは、ほんの僅かな“異変”があった。


 いつもと同じ棚、いつもと同じ瓶。  けれど、香りが──違う。


 (……この香り)


 一見、芳醇な花の香りに紛れて、ほんのわずかに混ざる金属のような苦味。  ごくごく微細な違和感。


 私は茶葉を手に取り、ゆっくりと撫でる。  葉の質感、色、粉の混ざり具合。  普段であれば見逃していたかもしれないが、今日はなぜか直感が働いた。


 ──違う。


 私は香りをもう一度確かめ、自らの記憶をたどる。  幼いころ、薬草庫で偶然かいだことのある、特別な毒草──


 「……ヒューム・マルドン……」


 即効性はないが、体内に入ればじわじわと神経を麻痺させ、内臓に影響を及ぼす。  希釈されていればなおさら、気づかれにくい。


 (誰が……いつ、こんなものを)


 私は手を震わせながら、即座にその茶葉を別の容器に密封し、隠した。


 ──姫様には絶対に口にさせない。



 「姫様、申し訳ありません。……本日の紅茶は、少しお時間をいただけますか」


 「え? もちろん構わないけれど……どうかしたの?」


 「いえ、少々手順を見直したくて」


 姫様の目は、どこか探るようだった。  それでも私は微笑みを崩さず、再び棚へ向かった。


 指先は汗ばみ、胸の鼓動がやまない。


 それでも、私は静かに別の茶葉を選び、慎重にブレンドする。


 今まで以上に集中して。  絶対に安全なものを。


 淹れながら、私はふと考えていた。


 もし、あれをそのまま淹れていたら。  もし、香りの違和感に気づかなかったら。


 姫様は──



 「お待たせしました」


 「ありがとう、アイリス。……ふふ、なんだかいつも以上に丁寧ね」


 「……気のせいかと」


 ふたりでカップを傾ける。


 「このブレンド……“春雷の手前”って感じね」


 「名付けておりませんでしたが、いただきます」


 「ふふ。なんとなく、空が鳴り出す前みたいな……そんな空気がするの」


 その言葉に、思わず息が詰まりそうになった。


 ──姫様の感性は、どこか鋭い。  きっと、何かを感じ取っていたのだ。



 紅茶の時間の後、私は密かにカレンを呼び出した。  誰にも聞かれぬよう、静かな廊下の端で小声で話す。


 「……この茶葉、香りを確かめていただけますか」


 カレンは小瓶を受け取り、ふたを開けて一瞬で顔色を変えた。


 「……これは、ヒューム系の……!」


 「はい。微細ですが、混入の可能性が高いです」


 「姫様は……」


 「飲まれておりません。変更いたしました」


 カレンは深く息を吐いた。


 「即刻、封鎖と調査を要請します。これは警備局にも連携を」


 「お願いします」


 その場でのやり取りは数分だったが、私の背筋には冷たい汗が流れていた。


 (こんなものが、姫様のそばにまで届くなんて)


 犯人の正体も、動機も、まだ見えない。  けれど、これが偶然ではないことだけは明らかだった。



 その夜。


 私は姫様の髪を結いながら、普段通りを装っていた。


 「……今日の紅茶、何かあった?」


 「いえ。少し、香りが不安定でしたので、変更しました」


 「……そう。ありがとう」


 姫様は、すべてを察していた。  けれど、それを私に言わせまいとしてくれていた。


 私は、どうしても黙っていられなかった。


 「姫様」


 「なに?」


 「今夜は、ずっとそばにおります」


 「……そうして」


 その言葉を聞いた姫様は、そっと私の手を取った。  やわらかく、温かく。


 私はその手を強く握り返した。  これが、守りたかった命なのだと。



 姫様が静かに眠りについたあと、私は扉の近くで立ったまま、部屋の空気を見つめていた。


 (私は、この手で姫様を守った)


 それは事実だった。


 けれど同時に、


 (あと少し気づくのが遅ければ──)


 という恐怖も、心の底に渦を巻いていた。


 “ふたり分の時間”。  それは、どれほど脆く、そして貴重なものなのか。


 私にできることは、この手で、目で、すべての危険を遮ること。


 命をかけても、守ると決めたあの日から。


 私は、あの人の背に、すべてを預けてもらえるような存在になりたいと強く願っていた。


 扉の外から、誰かの足音が遠ざかる。


 警備の者だろうか。  けれど、その音すらも疑いたくなるほどに、私は警戒していた。


 姫様を守る。  それは私の全てだ。


 そしてその夜、私は一睡もせず、朝を迎えた。




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