第70話 毒を裂く香り(芽吹月十六日・午後)
午後の陽射しがやさしく差し込む姫様の私室。 いつものように、私は紅茶の準備をしていた。
けれど、その日だけは、ほんの僅かな“異変”があった。
いつもと同じ棚、いつもと同じ瓶。 けれど、香りが──違う。
(……この香り)
一見、芳醇な花の香りに紛れて、ほんのわずかに混ざる金属のような苦味。 ごくごく微細な違和感。
私は茶葉を手に取り、ゆっくりと撫でる。 葉の質感、色、粉の混ざり具合。 普段であれば見逃していたかもしれないが、今日はなぜか直感が働いた。
──違う。
私は香りをもう一度確かめ、自らの記憶をたどる。 幼いころ、薬草庫で偶然かいだことのある、特別な毒草──
「……ヒューム・マルドン……」
即効性はないが、体内に入ればじわじわと神経を麻痺させ、内臓に影響を及ぼす。 希釈されていればなおさら、気づかれにくい。
(誰が……いつ、こんなものを)
私は手を震わせながら、即座にその茶葉を別の容器に密封し、隠した。
──姫様には絶対に口にさせない。
*
「姫様、申し訳ありません。……本日の紅茶は、少しお時間をいただけますか」
「え? もちろん構わないけれど……どうかしたの?」
「いえ、少々手順を見直したくて」
姫様の目は、どこか探るようだった。 それでも私は微笑みを崩さず、再び棚へ向かった。
指先は汗ばみ、胸の鼓動がやまない。
それでも、私は静かに別の茶葉を選び、慎重にブレンドする。
今まで以上に集中して。 絶対に安全なものを。
淹れながら、私はふと考えていた。
もし、あれをそのまま淹れていたら。 もし、香りの違和感に気づかなかったら。
姫様は──
*
「お待たせしました」
「ありがとう、アイリス。……ふふ、なんだかいつも以上に丁寧ね」
「……気のせいかと」
ふたりでカップを傾ける。
「このブレンド……“春雷の手前”って感じね」
「名付けておりませんでしたが、いただきます」
「ふふ。なんとなく、空が鳴り出す前みたいな……そんな空気がするの」
その言葉に、思わず息が詰まりそうになった。
──姫様の感性は、どこか鋭い。 きっと、何かを感じ取っていたのだ。
*
紅茶の時間の後、私は密かにカレンを呼び出した。 誰にも聞かれぬよう、静かな廊下の端で小声で話す。
「……この茶葉、香りを確かめていただけますか」
カレンは小瓶を受け取り、ふたを開けて一瞬で顔色を変えた。
「……これは、ヒューム系の……!」
「はい。微細ですが、混入の可能性が高いです」
「姫様は……」
「飲まれておりません。変更いたしました」
カレンは深く息を吐いた。
「即刻、封鎖と調査を要請します。これは警備局にも連携を」
「お願いします」
その場でのやり取りは数分だったが、私の背筋には冷たい汗が流れていた。
(こんなものが、姫様のそばにまで届くなんて)
犯人の正体も、動機も、まだ見えない。 けれど、これが偶然ではないことだけは明らかだった。
*
その夜。
私は姫様の髪を結いながら、普段通りを装っていた。
「……今日の紅茶、何かあった?」
「いえ。少し、香りが不安定でしたので、変更しました」
「……そう。ありがとう」
姫様は、すべてを察していた。 けれど、それを私に言わせまいとしてくれていた。
私は、どうしても黙っていられなかった。
「姫様」
「なに?」
「今夜は、ずっとそばにおります」
「……そうして」
その言葉を聞いた姫様は、そっと私の手を取った。 やわらかく、温かく。
私はその手を強く握り返した。 これが、守りたかった命なのだと。
*
姫様が静かに眠りについたあと、私は扉の近くで立ったまま、部屋の空気を見つめていた。
(私は、この手で姫様を守った)
それは事実だった。
けれど同時に、
(あと少し気づくのが遅ければ──)
という恐怖も、心の底に渦を巻いていた。
“ふたり分の時間”。 それは、どれほど脆く、そして貴重なものなのか。
私にできることは、この手で、目で、すべての危険を遮ること。
命をかけても、守ると決めたあの日から。
私は、あの人の背に、すべてを預けてもらえるような存在になりたいと強く願っていた。
扉の外から、誰かの足音が遠ざかる。
警備の者だろうか。 けれど、その音すらも疑いたくなるほどに、私は警戒していた。
姫様を守る。 それは私の全てだ。
そしてその夜、私は一睡もせず、朝を迎えた。




