第7話 春の紅茶と、お返しの話(王城歴1349年 春月二十八日)
春月二十八日、朝。
今日は朝から、なぜか厨房が騒がしかった。 「ジャムがない」「皿が一枚多い」「トーストが焦げた」「砂糖を塩と間違えた」など、ちょっとした騒動が連続して発生し、私は無言で片付けに追われていた。
「……これは、朝から波乱の予感です」
誰にも聞かれないよう、心の中でだけ呟く。 そうしてようやく当番の時間を終える頃には、私はもうすっかり“東庭に早く行きたい”という気持ちで頭がいっぱいになっていた。
昨日の姫様は、相変わらず気まぐれなようでいて、どこか律儀な一面もあって。 今日も、たぶん……待っている気がする。
回廊を抜けて東庭に入ると、案の定、姫様は花壇の前にいた。
「おはよう、アイリス」
「おはようございます、姫様」
この朝の挨拶も、もう自然なものになりつつある。
「今日は早かったわね。何か良いことでも?」
「いえ、むしろ……厨房で朝から騒動がありましたので、早く逃げてまいりました」
「逃げてきたの!? 使用人として大丈夫それ?」
「“すでに当番は終了していた”ということでご容赦ください」
「ふふっ……あなた、ほんとに真面目なんだかズルいんだか分からないわね」
姫様はいつものようにポットを取り出し、紅茶の準備を始める。 今日はレモンの香りがほのかに漂っていた。
「本日のブレンドは、“さっぱり目”です。昨日のがちょっと甘すぎたって反省して」
「お身体に支障はなかったのでしょうか」
「昨日? 夜中にお腹すいてもう一杯飲んだわ」
「飲みすぎでは……?」
「だって、アイリスが褒めてくれたから……」
言葉の最後がぼそっとなったのは、気のせいではない。 カップを受け取り、私は丁寧に礼を言った。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
「じゃあ今日は、アイリスにお願いがあるの」
姫様は、どこか企み顔でそう切り出した。
「……お願い、でございますか」
「うん。なんかこう、お返し的な? 昨日、私がハーブティーあげたから……今日はあなたが何か、私にくれる番」
「……たとえば?」
「“ありがとう”って言葉でもいいし、飴でもいいし、……私にひとつ、秘密を教えてくれてもいい」
「秘密……ですか」
「うん、なんでもいいの。たとえば、“朝起きたらまず何する?”とか、“嫌いな野菜は?”とか」
「ずいぶん日常的な秘密ですね」
「だって、そういうのが知りたいんだもの」
姫様はそう言って、にこりと笑った。
私は少しだけ考え、そして答える。
「……朝、最初にすることは。紅茶を一口飲むこと、です」
「えっ、ほんと!? それ私の影響!?」
「……以前からの習慣です」
「がーん……でも、いい! 今日の収穫はそれで満足!」
そうしてまた、ふたりの紅茶の時間が始まった。 春の朝の静かな陽射しの中で。