第69話 その手のぬくもりは灯火のように(芽吹月十六日・朝〜午前)
朝の光が、カーテン越しに私室へ差し込んでいた。 ほんのりとしたあたたかさ。 昨日よりも、少しだけ春に近づいたような気がした。
私は姫様のベッドのそばに椅子を置き、その横に紅茶のセットを並べていた。 ゆっくりと立ち上がり、そっと声をかける。
「……姫様。朝でございます」
まどろみの中、姫様はふわりとまつげを揺らし、目を開いた。
「おはよう……アイリス」
「おはようございます。……紅茶の準備ができております」
「ふふ、“誓いの朝”の、翌日ね」
「本日は、“灯火のぬくもり”という名にしてみました」
姫様は、くすっと小さく笑う。
「いい名前。きっと、今の私にちょうどいい」
ゆっくりとベッドから起き上がり、カップを手に取る。
ふたりでテーブルを挟み、静かに紅茶を口にする朝。 それが“日常”であることの奇跡に、胸がじんとした。
*
朝の支度を終えた後、姫様は政務室へ。 私はその付き人として共に向かう。
廊下ですれ違った文官や侍女たちの視線は、どこか落ち着きを取り戻していた。 あからさまなものは、少なくなった。
(……姫様の動きが、何か変化をもたらしたのでしょうか)
そう思いながらも、私は口にしなかった。 ただ静かに、その背を見守る。
*
政務室でのやりとりは、今日も穏やかだった。
文官たちの口調に刺がなくなっていたのは、姫様の“何か”が彼らに影響したからだろう。
会議のあと、姫様はふと筆を止めて、私を見上げた。
「……ねえ、アイリス」
「はい」
「今の私は、ちゃんと前に進めてると思う?」
私は一瞬だけ驚き、それからすぐに頷いた。
「はい。……昨日の姫様の背中を見て、そう思いました」
姫様は、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「なら、もう少し強くなれる気がする」
「……わたくしも、一緒に」
「ふたり分の強さ、ね」
ふたりの間に、自然と笑みが広がった。
この朝が、始まりの合図のような気がした。
この先にどんな風が吹いても、 この手のぬくもりだけは、手放さないように。
私は、そっと胸に誓った。




