第68話 “ふたり分”の夜に灯るもの(芽吹月十五日・夜/姫様視点)
あたたかな紅茶の湯気に包まれながら、私は窓辺の椅子に体を預けていた。
久しぶりの外出は、思っていたよりも神経をすり減らすもので── けれど今は、すべてが報われるような気さえしていた。
「“ただいまの香り”……アイリスらしいわね」
「そう言っていただけると、ほっとします」
彼女は私の正面ではなく、少し斜め横。 距離は近いけれど、気配はそっと寄り添うように優しかった。
「今日は……何をして過ごしていたの?」
「棚の整理と、調度品の手入れを少し。そして……紅茶の配合をいくつか」
「ふふ。それで“ただいま”が生まれたのね」
「はい。……いつ、お戻りになるかわからなかったので」
「待っていてくれて、ありがとう」
その言葉に、アイリスは小さく首を横に振った。
「お戻りになると信じていました」
その確かな声に、私は思わず目を伏せた。
(信じられていたのだ。 あの静かな背中の向こうに)
*
ふたりで紅茶を飲み終えたあとも、しばらく部屋は静かだった。 けれどその静けさは不安ではなく、むしろあたたかかった。
「ねえ、アイリス」
「はい」
「もし──もしも、今後もっと強い反発が来たら。 あなたの存在を、否定しようとする声が大きくなったら。 ……どうする?」
アイリスは少しだけ迷った。 けれど、次の瞬間にはまっすぐに私の目を見て、答えた。
「それでも、姫様のそばにいたいと思います」
「……たとえ、私がそのことで責められても?」
「……責められるのは、わたくしで構いません」
私は、思わず笑ってしまった。
「だめよ、それじゃあ。責められるのも、わたしで充分」
「では……ふたりで、責められましょう」
「ふたり分の覚悟、ってところかしら」
アイリスも、ふっと笑った。
(ああ、そうだ。 この子の隣なら、私はきっとどんな道も歩ける)
*
夜が深まるにつれて、室内はより静かになっていった。 暖炉の火がゆらりと揺れている。
私はアイリスに背を向けて、窓辺に立った。 ふと、背後で布のすれる音がして──
「姫様、髪を……」
「ええ、お願い」
アイリスの指が髪に触れる。 くしゅり、と細い櫛が音を立てる。
この感覚も、もうすっかり日常になっていた。
「あなたに髪を結われるの、好きなの」
「わたくしも、この時間が好きです」
結び終えた後、私は椅子に腰を下ろした。 そのままアイリスもそばに座る。
「今夜も……一緒にいてくれる?」
「はい。ずっとここにおります」
私はその言葉に、そっと目を閉じた。
“ふたり分”という言葉が、もはや象徴でも比喩でもなく。 本当に、日常の一部になっていることに気づいていた。
そして、その“日常”を守るためなら、私はどんな困難にも向き合える。
この時間のぬくもりが、明日の力になるのだから。
私はアイリスの手に、そっと自分の指先を重ねた。 言葉はなかった。 けれど、それで充分だった。




