表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/100

第67話 待つ時間、揺れる心(芽吹月十五日・午前〜午後)

 姫様が外出された午前、私はひとり静かに紅茶棚の整理をしていた。


 窓の外では、少し風が吹いていた。  春とは思えぬほど、どこか冷たい空気。


 (……早く、帰ってこられますように)


 紅茶の香りに包まれながらも、心は落ち着かない。


 「“誓いの朝”……なんて、大げさでしたかね」


 思わず口に出して、少し恥ずかしくなった。  でも、あの名前には嘘はなかった。  心から、姫様に無事で帰ってきてほしいと思ったから。



 午前中は書類の整理や調度品の点検で過ごした。  カレンは相変わらず淡々としていたが、昨日より少し柔らかい。


 「……ご無理なさらないでくださいね、アイリス様」


 「ありがとうございます」


 それだけで、なぜか少し救われた気がした。


 彼女なりに、私を見ていてくれていたのだろう。  厳しい視線の裏に、憂慮と誠実さがあることを、ようやく理解できた気がする。



 午後に入っても、姫様はまだ戻らない。  昼食はひとり、控えめに済ませた。


 ひとりで食事を取るのは、ほんの少し前まで当たり前だった。  けれど、今はそれがどれほど味気ないかを、私は知ってしまっていた。


 (姫様……どこに行かれたのですか)


 静かな室内に、銀のスプーンが皿に当たる小さな音が響いた。


 ──その音すら、寂しい。


 食後の時間、私は姫様の机の整理に取りかかった。


 ふと、一枚のメモが目に入る。  それは、数日前の紅茶のブレンド案。


 「……“月のひとしずく”。姫様の文字」


 そっと触れるだけで、胸がふわりとあたたかくなった。


 姫様は、私との時間に名前をくれる。  私の存在そのものに、言葉をくれる。


 私はそれに応えられているのだろうか。


 その問いが、静かに胸に沈んだ。



 日暮れが近づいた頃、私は姫様の私室を整え直していた。  カップを用意し、ブレンドを選ぶ。


 今夜のために選んだのは──  “ただいまの香り”と、私の中で名付けた。


 やわらかな甘さと、少し懐かしさを含んだブレンド。


 (無事に、お戻りになりますように)


 指先で、カップを揃える。  姫様の笑顔を思い出しながら。


 準備が整ったあと、私は窓際の椅子に腰掛けた。


 ふと、昔のことを思い出す。


 この城に来たばかりの頃──私は、ただ静かに任務をこなすだけの存在だった。  誰かと心を通わせることもなく、自分の名前すら薄れていくような日々。


 そんな私に、初めて“紅茶をお願い”と言ってくれたのが姫様だった。


 それは命令でも仕事でもなく──ただの、会話だった。


 あの日から、私の時間は少しずつ変わり始めた。



 外が少し暗くなったころ、扉がノックされた。


 「姫様が、お戻りです」


 胸が跳ね上がる。  私は急いで立ち上がり、扉の前へと向かった。


 「おかえりなさいませ、姫様」


 扉の向こうに立っていた姫様は、やや疲れているようだったが、笑っていた。


 「ただいま、アイリス。……帰ってこられて、よかった」


 「わたくしも、そう思います」


 その言葉のあと、ふたりは無言のまま微笑み合った。  それだけで、胸の奥が満ちていく。


 姫様は椅子に腰かけて、私が注いだ紅茶を手に取る。


 「この香り……あたたかい」


 「“ただいまの香り”と、名付けました」


 「……ふふ、ぴったりね」


 カップを手にした姫様の表情が、すっと和らぐ。  その横顔を見ながら、私は改めて思う。


 やっぱり、私はこの人のそばにいたい。  ずっと。


 変わる世界のなかで、変わらずに守りたいと思える存在が、ここにある。


 その想いが、静かに、けれど確かに私の中で強くなっていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ