第67話 待つ時間、揺れる心(芽吹月十五日・午前〜午後)
姫様が外出された午前、私はひとり静かに紅茶棚の整理をしていた。
窓の外では、少し風が吹いていた。 春とは思えぬほど、どこか冷たい空気。
(……早く、帰ってこられますように)
紅茶の香りに包まれながらも、心は落ち着かない。
「“誓いの朝”……なんて、大げさでしたかね」
思わず口に出して、少し恥ずかしくなった。 でも、あの名前には嘘はなかった。 心から、姫様に無事で帰ってきてほしいと思ったから。
*
午前中は書類の整理や調度品の点検で過ごした。 カレンは相変わらず淡々としていたが、昨日より少し柔らかい。
「……ご無理なさらないでくださいね、アイリス様」
「ありがとうございます」
それだけで、なぜか少し救われた気がした。
彼女なりに、私を見ていてくれていたのだろう。 厳しい視線の裏に、憂慮と誠実さがあることを、ようやく理解できた気がする。
*
午後に入っても、姫様はまだ戻らない。 昼食はひとり、控えめに済ませた。
ひとりで食事を取るのは、ほんの少し前まで当たり前だった。 けれど、今はそれがどれほど味気ないかを、私は知ってしまっていた。
(姫様……どこに行かれたのですか)
静かな室内に、銀のスプーンが皿に当たる小さな音が響いた。
──その音すら、寂しい。
食後の時間、私は姫様の机の整理に取りかかった。
ふと、一枚のメモが目に入る。 それは、数日前の紅茶のブレンド案。
「……“月のひとしずく”。姫様の文字」
そっと触れるだけで、胸がふわりとあたたかくなった。
姫様は、私との時間に名前をくれる。 私の存在そのものに、言葉をくれる。
私はそれに応えられているのだろうか。
その問いが、静かに胸に沈んだ。
*
日暮れが近づいた頃、私は姫様の私室を整え直していた。 カップを用意し、ブレンドを選ぶ。
今夜のために選んだのは── “ただいまの香り”と、私の中で名付けた。
やわらかな甘さと、少し懐かしさを含んだブレンド。
(無事に、お戻りになりますように)
指先で、カップを揃える。 姫様の笑顔を思い出しながら。
準備が整ったあと、私は窓際の椅子に腰掛けた。
ふと、昔のことを思い出す。
この城に来たばかりの頃──私は、ただ静かに任務をこなすだけの存在だった。 誰かと心を通わせることもなく、自分の名前すら薄れていくような日々。
そんな私に、初めて“紅茶をお願い”と言ってくれたのが姫様だった。
それは命令でも仕事でもなく──ただの、会話だった。
あの日から、私の時間は少しずつ変わり始めた。
*
外が少し暗くなったころ、扉がノックされた。
「姫様が、お戻りです」
胸が跳ね上がる。 私は急いで立ち上がり、扉の前へと向かった。
「おかえりなさいませ、姫様」
扉の向こうに立っていた姫様は、やや疲れているようだったが、笑っていた。
「ただいま、アイリス。……帰ってこられて、よかった」
「わたくしも、そう思います」
その言葉のあと、ふたりは無言のまま微笑み合った。 それだけで、胸の奥が満ちていく。
姫様は椅子に腰かけて、私が注いだ紅茶を手に取る。
「この香り……あたたかい」
「“ただいまの香り”と、名付けました」
「……ふふ、ぴったりね」
カップを手にした姫様の表情が、すっと和らぐ。 その横顔を見ながら、私は改めて思う。
やっぱり、私はこの人のそばにいたい。 ずっと。
変わる世界のなかで、変わらずに守りたいと思える存在が、ここにある。
その想いが、静かに、けれど確かに私の中で強くなっていた。




