第63話 ざわめきの兆し、静けさの中に(芽吹月十四日・午前)
朝食の後、姫様の政務が始まるまでの短い時間。
私はいつものように私室で茶葉の整理をしていた。
昨夜の“月のひとしずく”、今朝の“陽だまりの約束”。
このふたつのブレンドは、私にとって姫様との“会話の記録”でもある。
「……次の名前は、何になるのでしょう」
私がそう独りごちたとき──
「おや、ひとり言とは珍しいですね、アイリス様」
カレンが部屋に入ってきた。
いつも通り柔らかな微笑を浮かべながらも、その目には一瞬だけ何かがよぎった。
「姫様から呼ばれております。少し早めに控室へ」
「ありがとうございます。すぐに向かいます」
カレンが部屋を出ていったあと、私は一拍置いて立ち上がった。
何気ないやりとり──けれど、その視線の奥に微かな違和感があった。
*
控室の扉を開けると、姫様はすでに鏡台の前に座っていた。
白銀の髪を自ら結いながら、私に気づいて小さく微笑む。
「おはよう、アイリス」
「おはようございます。……本日も、髪を結わせていただいても?」
「もちろん」
私は静かに背後にまわり、櫛を取り、姫様の髪を手に取る。
「今日も、いい香り。アイリスの手からは、不思議な落ち着きを感じるわ」
「それは……紅茶の香りが移っているから、かもしれません」
「ふふ。じゃあ私は、ずっとその香りを身にまとっていたいわね」
そうして、鏡越しに視線が重なる。
姫様の目は穏やかで、けれどどこか、疲れの色も含んでいた。
「姫様……ご無理をなさらないでください」
「ありがとう。でも、今日は少し気を引き締めないといけないの」
「なにか、ありましたか?」
「……“重役のひとりが、私の態度を“問題視している”らしいの」
「それは……」
「大したことではないわ。まだ噂の域よ。でも、こういうのはいつか形になるから、少しずつ対応しないと」
姫様の声は落ち着いていた。
けれど、私の胸はざわついていた。
姫様に対する視線が、今までとは違う何かを帯びてきているのではないか。
その予感は、控室を出て廊下を歩いたとき、さらに強まった。
すれ違う侍女のひとりが、ほんのわずかに私を一瞥した。
視線を逸らすのが遅れたその目には、好奇とも敵意ともつかない光が宿っていた。
「……」
私は姫様の後ろに控えながら、その背中がいつもより遠く感じた。
──なにかが、少しずつ変わろうとしている。
けれど、それが何なのかは、まだはっきりとは見えない。
政務室へと向かう途中、偶然耳に入った小さな会話があった。
「……見た? 最近の“付き人”、ちょっと距離が近すぎると思わない?」
「しっ……壁にも耳ありって言うのに」
(……やはり)
姫様の名は出ていない。
けれど、話の主は明白だった。
私は、何もなかったように振る舞う。
表情を変えず、歩調も乱さず。
けれど、背筋には冷たい汗が一筋流れていた。
*
政務が始まり、姫様は数名の文官たちと書類の確認を始めた。
私はその隣で静かに控え、指示があれば即座に対応する。
書類を運ぶ。
筆記具を揃える。
必要な記録を持ってくる。
(……いつも通りのはず、なのに)
文官のひとり──青色の袖飾りをつけた中年の男性が、姫様の発言にわずかに眉を寄せた。
「殿下、それは……やや、感情的すぎるご判断かと」
「……そう見えましたか? 私は事実に基づいて申し上げたつもりですが」
「ですが最近、殿下は“身近な者の言葉に耳を傾けすぎている”との声も……」
(身近な者──)
それが誰を指しているのか、考えるまでもない。
姫様は一瞬、黙った。
けれど次の瞬間には、静かに微笑みながら答えていた。
「私が信じているのは、声の大小ではなく、言葉の重みです」
「……承知いたしました」
その場はそれで収まった。
けれど、私はその言葉の裏にある緊張を、確かに感じ取っていた。
会議が終わったあと、姫様は小さくため息をついた。
「……ごめんなさいね。あなたまで、巻き込んでしまってる」
「姫様」
「でも、私は後悔していないわ。あなたを傍に置いたことも、“ふたり分”を始めたことも」
私は小さく首を振る。
「わたくしも、同じ気持ちです」
外の空はいつのまにか曇りがちになっていた。
春先の天気のように、少し不安定で──
それでも、私は姫様の隣に立ち続ける。
それがたとえ、静かなざわめきの中であっても。




