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第63話 ざわめきの兆し、静けさの中に(芽吹月十四日・午前)

 朝食の後、姫様の政務が始まるまでの短い時間。

 私はいつものように私室で茶葉の整理をしていた。


 昨夜の“月のひとしずく”、今朝の“陽だまりの約束”。

 このふたつのブレンドは、私にとって姫様との“会話の記録”でもある。


 「……次の名前は、何になるのでしょう」


 私がそう独りごちたとき──


 「おや、ひとり言とは珍しいですね、アイリス様」


 カレンが部屋に入ってきた。

 いつも通り柔らかな微笑を浮かべながらも、その目には一瞬だけ何かがよぎった。


 「姫様から呼ばれております。少し早めに控室へ」


 「ありがとうございます。すぐに向かいます」


 カレンが部屋を出ていったあと、私は一拍置いて立ち上がった。

 何気ないやりとり──けれど、その視線の奥に微かな違和感があった。



 控室の扉を開けると、姫様はすでに鏡台の前に座っていた。

 白銀の髪を自ら結いながら、私に気づいて小さく微笑む。


 「おはよう、アイリス」


 「おはようございます。……本日も、髪を結わせていただいても?」


 「もちろん」


 私は静かに背後にまわり、櫛を取り、姫様の髪を手に取る。


 「今日も、いい香り。アイリスの手からは、不思議な落ち着きを感じるわ」


 「それは……紅茶の香りが移っているから、かもしれません」


 「ふふ。じゃあ私は、ずっとその香りを身にまとっていたいわね」


 そうして、鏡越しに視線が重なる。

 姫様の目は穏やかで、けれどどこか、疲れの色も含んでいた。


 「姫様……ご無理をなさらないでください」


 「ありがとう。でも、今日は少し気を引き締めないといけないの」


 「なにか、ありましたか?」


 「……“重役のひとりが、私の態度を“問題視している”らしいの」


 「それは……」


 「大したことではないわ。まだ噂の域よ。でも、こういうのはいつか形になるから、少しずつ対応しないと」


 姫様の声は落ち着いていた。

 けれど、私の胸はざわついていた。


 姫様に対する視線が、今までとは違う何かを帯びてきているのではないか。


 その予感は、控室を出て廊下を歩いたとき、さらに強まった。


 すれ違う侍女のひとりが、ほんのわずかに私を一瞥した。

 視線を逸らすのが遅れたその目には、好奇とも敵意ともつかない光が宿っていた。


 「……」


 私は姫様の後ろに控えながら、その背中がいつもより遠く感じた。


 ──なにかが、少しずつ変わろうとしている。


 けれど、それが何なのかは、まだはっきりとは見えない。


 政務室へと向かう途中、偶然耳に入った小さな会話があった。


 「……見た? 最近の“付き人”、ちょっと距離が近すぎると思わない?」


 「しっ……壁にも耳ありって言うのに」


 (……やはり)


 姫様の名は出ていない。

 けれど、話の主は明白だった。


 私は、何もなかったように振る舞う。

 表情を変えず、歩調も乱さず。


 けれど、背筋には冷たい汗が一筋流れていた。



 政務が始まり、姫様は数名の文官たちと書類の確認を始めた。

 私はその隣で静かに控え、指示があれば即座に対応する。


 書類を運ぶ。

 筆記具を揃える。

 必要な記録を持ってくる。


 (……いつも通りのはず、なのに)


 文官のひとり──青色の袖飾りをつけた中年の男性が、姫様の発言にわずかに眉を寄せた。


 「殿下、それは……やや、感情的すぎるご判断かと」


 「……そう見えましたか? 私は事実に基づいて申し上げたつもりですが」


 「ですが最近、殿下は“身近な者の言葉に耳を傾けすぎている”との声も……」


 (身近な者──)


 それが誰を指しているのか、考えるまでもない。


 姫様は一瞬、黙った。

 けれど次の瞬間には、静かに微笑みながら答えていた。


 「私が信じているのは、声の大小ではなく、言葉の重みです」


 「……承知いたしました」


 その場はそれで収まった。


 けれど、私はその言葉の裏にある緊張を、確かに感じ取っていた。


 会議が終わったあと、姫様は小さくため息をついた。


 「……ごめんなさいね。あなたまで、巻き込んでしまってる」


 「姫様」


 「でも、私は後悔していないわ。あなたを傍に置いたことも、“ふたり分”を始めたことも」


 私は小さく首を振る。


 「わたくしも、同じ気持ちです」


 外の空はいつのまにか曇りがちになっていた。

 春先の天気のように、少し不安定で──

 それでも、私は姫様の隣に立ち続ける。


 それがたとえ、静かなざわめきの中であっても。



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