第62話 “ふたり分”で始まる朝(芽吹月十四日・早朝)
まだ太陽が顔を出す前、私は姫様の私室の前に立っていた。
廊下の窓から差し込む薄明かり。
昨夜の月が、かすかに名残を留めている。
「……失礼いたします」
静かに扉を開けると、部屋の中には変わらない暖かさがあった。
暖炉の火はすでに落ちていたが、その余熱が空気を柔らかく包んでいた。
(姫様……お休み中、でしょうか)
そっと目を向けると、ソファの上に毛布をかけたまま、姫様がうつぶせにうたた寝していた。
「……昨夜、ベッドに戻られなかったのですね」
私はそっと近づき、毛布の端を整えながら、姫様の髪に軽く指先を添えた。
「……ん……アイリス……?」
その声に、私は思わず手を引っ込める。
「おはようございます、姫様」
姫様は、まだ少し夢の中にいるような声で返してきた。
「……ん。もう朝?」
「はい。まだ外は暗いですが、紅茶の準備をいたします」
「うん……“ふたり分”で」
「かしこまりました」
私は微笑み、台所へと向かう。
姫様の眠たげな声に、胸の奥が温かくなっていた。
*
茶葉を選び、昨日と同じ優しい香りのブレンドを用意する。
鍋の湯がコトコトと沸き始める頃、姫様の寝室から小さな足音が近づいてきた。
「……おはよう、アイリス」
「おはようございます。少しお疲れのようでしたので、寝かせておこうかとも思いましたが……」
「でも、起きてよかった。あなたの紅茶の香りが、夢の続きみたいだったから」
私は、姫様に背を向けたまま、耳まで赤くなっているのを自覚していた。
「……こちらへ、どうぞ。すぐにお淹れします」
ふたりで並んで座ったテーブルには、朝の光がうっすらと差し込み始めていた。
「今日もいい日になりそうね」
「はい。……わたくしも、そう思います」
カップをふたり同時に持ち上げ、口をつける。
まだあたたかな、その温度が心まで染み込んでいくようだった。
*
朝の身支度を整えたあと、姫様は少し楽しげに言った。
「今日は一緒に、庭まで散歩してみたいの。……まだ時間あるでしょ?」
「はい。朝の巡回は交代していただきましたので」
「抜かりないのね。さすがアイリス」
「お褒めにあずかり、光栄です」
私たちはふたり、ゆっくりと城の裏庭へと足を運んだ。
花壇に咲く小さな朝花。
湿った土の匂い。
鳥の鳴き声と、風に揺れる若葉の音。
「……ここ、好き。何もなくて、静かで」
「はい。とても穏やかな場所です」
姫様がしゃがみこみ、小さな花を見つめる。
「この花、昨日の夜と同じ名前が似合う気がする」
「月のひとしずく、ですか?」
「ええ。……でも、昼の顔は違う名前がいいかもしれないわね。たとえば──“陽だまりの約束”とか」
私は一瞬、息を止めた。
姫様は、さらりとそういうことを言う。
だからこそ、余計に胸がざわついてしまうのだ。
「その名前……素敵です」
「じゃあ、次の紅茶はその名前にしましょう」
「はい。“陽だまりの約束”、承知いたしました」
姫様は立ち上がり、私の方へと振り返る。
「あなたがいてくれる朝が、こんなにもいいものだなんて」
「……姫様」
「これから毎朝、ふたり分の時間を重ねていったら……もっと、いい未来になると思わない?」
その言葉に、私は何も言えなくなった。
けれど、心の中で確かに答えていた。
(はい。そうなれば……私は、どれだけでも)
朝の光が、ふたりを包み込む。
そして新しい一日が、ゆっくりと始まっていった。




