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第62話 “ふたり分”で始まる朝(芽吹月十四日・早朝)

 まだ太陽が顔を出す前、私は姫様の私室の前に立っていた。


 廊下の窓から差し込む薄明かり。

 昨夜の月が、かすかに名残を留めている。


 「……失礼いたします」


 静かに扉を開けると、部屋の中には変わらない暖かさがあった。

 暖炉の火はすでに落ちていたが、その余熱が空気を柔らかく包んでいた。


 (姫様……お休み中、でしょうか)


 そっと目を向けると、ソファの上に毛布をかけたまま、姫様がうつぶせにうたた寝していた。


 「……昨夜、ベッドに戻られなかったのですね」


 私はそっと近づき、毛布の端を整えながら、姫様の髪に軽く指先を添えた。


 「……ん……アイリス……?」


 その声に、私は思わず手を引っ込める。


 「おはようございます、姫様」


 姫様は、まだ少し夢の中にいるような声で返してきた。


 「……ん。もう朝?」


 「はい。まだ外は暗いですが、紅茶の準備をいたします」


 「うん……“ふたり分”で」


 「かしこまりました」


 私は微笑み、台所へと向かう。

 姫様の眠たげな声に、胸の奥が温かくなっていた。



 茶葉を選び、昨日と同じ優しい香りのブレンドを用意する。

 鍋の湯がコトコトと沸き始める頃、姫様の寝室から小さな足音が近づいてきた。


 「……おはよう、アイリス」


 「おはようございます。少しお疲れのようでしたので、寝かせておこうかとも思いましたが……」


 「でも、起きてよかった。あなたの紅茶の香りが、夢の続きみたいだったから」


 私は、姫様に背を向けたまま、耳まで赤くなっているのを自覚していた。


 「……こちらへ、どうぞ。すぐにお淹れします」


 ふたりで並んで座ったテーブルには、朝の光がうっすらと差し込み始めていた。


 「今日もいい日になりそうね」


 「はい。……わたくしも、そう思います」


 カップをふたり同時に持ち上げ、口をつける。

 まだあたたかな、その温度が心まで染み込んでいくようだった。



 朝の身支度を整えたあと、姫様は少し楽しげに言った。


 「今日は一緒に、庭まで散歩してみたいの。……まだ時間あるでしょ?」


 「はい。朝の巡回は交代していただきましたので」


 「抜かりないのね。さすがアイリス」


 「お褒めにあずかり、光栄です」


 私たちはふたり、ゆっくりと城の裏庭へと足を運んだ。


 花壇に咲く小さな朝花。

 湿った土の匂い。

 鳥の鳴き声と、風に揺れる若葉の音。


 「……ここ、好き。何もなくて、静かで」


 「はい。とても穏やかな場所です」


 姫様がしゃがみこみ、小さな花を見つめる。


 「この花、昨日の夜と同じ名前が似合う気がする」


 「月のひとしずく、ですか?」


 「ええ。……でも、昼の顔は違う名前がいいかもしれないわね。たとえば──“陽だまりの約束”とか」


 私は一瞬、息を止めた。

 姫様は、さらりとそういうことを言う。

 だからこそ、余計に胸がざわついてしまうのだ。


 「その名前……素敵です」


 「じゃあ、次の紅茶はその名前にしましょう」


 「はい。“陽だまりの約束”、承知いたしました」


 姫様は立ち上がり、私の方へと振り返る。


 「あなたがいてくれる朝が、こんなにもいいものだなんて」


 「……姫様」


 「これから毎朝、ふたり分の時間を重ねていったら……もっと、いい未来になると思わない?」


 その言葉に、私は何も言えなくなった。


 けれど、心の中で確かに答えていた。


 (はい。そうなれば……私は、どれだけでも)


 朝の光が、ふたりを包み込む。

 そして新しい一日が、ゆっくりと始まっていった。



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