第61話 その手を引かれるように(芽吹月十三日・夜更け)
夜の鐘がひとつ、静かに城内に響いた。
中庭の石畳には月の光が淡く降りていて、まるでふたりだけを照らす舞台のようだった。
姫様の髪を整え終えたあとも、私たちはその場から動かず、同じ姿勢でしばらく夜の空気に包まれていた。
(このまま、時が止まればいいのに)
そんなことを考えてしまう自分に気づいて、胸がほんの少し苦しくなる。
姫様が、そっと私の手を取った。
「冷たくない?」
「いえ。姫様の手が……あたたかいです」
「なら、よかった」
やわらかな沈黙。
そのなかで、姫様の指が少しだけ動いた。
まるで、私の手をなぞるように、丁寧に。
「……ねえ、アイリス」
「はい」
「こんなに静かな夜って、久しぶりなの。だから……もう少しだけ、こうしていてもいい?」
「はい。もちろんです」
そう答えながらも、私は胸の奥でそっと問いかけていた。
──この“もう少し”が、ずっとだったらいいのに。
ふたり並んで、肩と肩が触れるだけの距離。
「今日の紅茶、名前はまだ決めてないのよね」
「はい。……ですが、もしよろしければ」
私はそっと、姫様の瞳を見つめながら言った。
「“月のひとしずく”というのは、いかがでしょう」
「……ふふ、いい名前ね。夜の静けさと、あなたの声にぴったり」
「……ありがとうございます」
姫様はそっと、私の手を離した。
けれどその指先の温もりは、まだ私の掌に残っていた。
「そろそろ、戻ろうか」
「はい。お部屋まで、お送りいたします」
「……じゃあ、付き人としてじゃなくて、ひとりの女の子として」
「……え?」
「今夜くらい、肩書きは全部置いて。……あなたの隣を歩いていたい」
姫様の言葉に、私の胸は高鳴った。
返事をするより早く、私は小さく頷いていた。
城の廊下へ戻ると、冷えた空気がふたりの肌をかすめた。
それでも寒くはなかった。
姫様の言葉と、あの手の温もりが、まだ私を包んでいたから。
静かに、ふたりきりで歩く夜道。
廊下に灯るランプの明かりが、ふたりの影を長く引き伸ばす。
「……あの、姫様」
「なに?」
「わたくしがこうして傍にいられるのは、まだ“付き人”としての任務の一環ですが」
「うん」
「それでも、姫様のそばにいることが……とても、幸せです」
「……そう言ってもらえると、私も幸せよ」
ほんのわずかな距離だったのに、部屋へ戻るまでの道のりは、とても長く、そしてあたたかかった。
*
姫様の私室に戻ると、暖炉に火が灯されていた。
すでに誰かが準備を整えてくれていたらしい。
「……ふふ、気が利くわね。カレンかしら」
「おそらく」
部屋の中はほんのりと温かくて、どこかほっとした空気が流れていた。
姫様はコートを脱ぎ、ゆっくりとソファに腰を下ろす。
私はその隣に、控えるように座った。
「ねえ、アイリス」
「はい」
「明日の朝、またここで……“ふたり分”の紅茶、お願いね」
「……かしこまりました」
私の胸に、またひとつ、小さな光が灯る。
──この時間が、日常になればいい。
暖炉の音。
静かな空間。
隣にいる、姫様の呼吸。
私は、そっと目を閉じた。
この夜のすべてを、心に刻むために。




