第60話 秘密のような、ささやかな夜(芽吹月十三日・夜/姫様視点)
夜の空は澄んでいて、風は少しだけ冷たかった。
それでも、アイリスが隣にいるだけで、世界は不思議と穏やかに感じる。
私たちは肩を寄せ合い、薄い肩掛けをふたりで半分こして、東庭のベンチに座っていた。
(あたたかいわ……本当に、アイリスが)
言葉にはしなかったけれど、私の中ではずっと前から決まっていたことがある。
この子は、私にとって“ただの付き人”なんかじゃない。
いつの間にか、目で追ってしまう。
いつの間にか、そばにいてほしくなる。
ふたり分の紅茶。
ふたり分のブランケット。
(そして、ふたり分の夜)
「……あの月、アイリスの瞳みたいね」
「……え?」
アイリスは少し驚いたように振り向く。
それがまた、愛おしかった。
「なんでもないわ。似てるだけ」
「……そう、ですか」
ふと、アイリスがカップを持ち直した。
「姫様」
「なに?」
「こういう夜、好きですか?」
「ええ、とても。……誰にも邪魔されない、静かな時間。あなたがいて、私がいて、それだけで足りる夜」
アイリスは少しだけ、目を伏せて笑った。
「……わたくしも、好きです」
(それはもう、反則級にかわいいのだけど)
言葉にするのは、もう少し後にしよう。
月明かりの下、風が少しだけ強くなって、アイリスの髪がさらりと揺れた。
「……髪、乱れたわ」
「す、すみません。後で整えます」
「今、直してもらえる?」
「えっ、ここで、ですか?」
「ええ。せっかくだから。……あなたの指先、好きだもの」
アイリスは少しの間固まって、そして、立ち上がった。
そっと私の背に回り、また静かに手を添える。
髪を撫でられるその感覚が心地よくて、私は目を閉じた。
(……今夜だけでも、夢のように)
「……姫様」
「なに?」
「髪……いつもより、柔らかい気がします」
「そうかしら。あなたの手が、やさしいからじゃない?」
「……そんなことは、ないと思います」
「あると思うわ」
そうしてふたりで、くすりと笑った。
遠くで夜の鐘が鳴る。
まだ、帰りたくなかった。
「ねえ、アイリス」
「はい」
「もし、いつか──“付き人”じゃなくなっても、私のそばにいてくれる?」
アイリスは、驚いたように息をのんだ。
けれど、その返事は、月よりもやわらかくて。
「……それでも、よろしければ」
私はそっと目を閉じた。
この夜の静けさは、いつまでも終わってほしくない。
そう、心から思った。




