第55話 新たな役目と、緊張の午後(芽吹月十二日・夕方)
芽吹月十二日、夕方。 私は厨房に戻ってからもしばらく、姫様からいただいた書状を手にしたまま、動けずにいた。
“直属の付き人任命申請書”。
公的な文書のはずなのに、その字面からは、姫様の声が聞こえてくるような気がして──胸の奥がじんわりと熱くなる。
(姫様のそばに)
そう言ってくださった。 紅茶を、声を、沈黙を、日常を、私と共有したいと。
──まるで、恋文のようだった。
私は椅子に腰掛け、書状を机の上にそっと置いた。 そして、今日の紅茶で使ったスプーンを布で拭きながら、胸の鼓動を落ち着けようとした。
(……本当に、私で良いのですか)
誰でも良かったはず。 もっと優秀な人も、もっと人前に出ることが得意な人もいる。
それでも姫様は、私を選んでくださった。 “好き”という言葉とともに、贈り物とともに、今日のこの任命を──
「……ありがたすぎて、どう返せばいいか分かりません」
私はスプーンを胸元に当て、小さく息を吐いた。
そのとき、カレンがふらりと厨房に入ってきた。
「おっ、ついにアイリスも“専属”かー。やったね」
「どうしてそれを……」
「姫様の側近が、廊下でうきうきで書類の話してた。あと厨房の壁、わりと薄い」
「…………」
「で? どうなの、気持ちは?」
「……まだ、整理がついていません」
「それがまたいい。いやー、いいね、恋と公務の混在!」
「カレン、これは政務です」
「うんうん、“政務”ね〜。その割にアイリス、ずっとにやけてるけど」
私は反論できずに、口元に手を当てた。
たしかに、笑ってしまっていた。 だって、嬉しかったから。
姫様が私を必要としてくれた。 それだけで、胸がいっぱいだった。
「……明日からは、紅茶だけでなく、身の回りのこともお支えしなければなりませんね」
「うん。でもたぶん、姫様は“それ以上のもの”を期待してるよ」
「それ以上……?」
「んふふ〜。まあ、焦らずじっくりね」
私は肩をすくめて笑ったカレンに小さくお辞儀をし、再び書状に視線を戻した。
姫様のそばに。 明日からは、その言葉が“役目”になる。
けれど、私にとってそれは、ただの義務ではなく、 ──姫様と生きる、ひとつの選択だった。
(明日も、ふたり分を)
私はそう決めて、スプーンを丁寧に包みながら、そっと胸にしまった。




