第54話 “姫様のそばに”という役目(芽吹月十二日・午後/姫様視点)
午後、私は王宮の会議室を出たあと、そのまま足を止めずに東庭へと向かっていた。
脇には、今日新たに決裁されたひとつの書状。 それは、私にとって特別な意味を持つ──“直属の付き人任命申請書”。
(今なら、渡せる気がする)
朝、スプーンを贈ったあの瞬間から、何かが変わりはじめていた。 アイリスの紅茶に感じたぬくもり。 沈黙の中にあった“ありがとう”の余韻。
あのやさしさを、ずっと隣で受け取っていたい。 そして、私の一番近くにいてほしい。
──それは、わがままであり、願いでもあった。
*
東庭に着くと、アイリスはすでにいつものように準備をしていた。 銀のスプーンを手に、丁寧に茶葉を計っている姿は、何度見ても飽きることがない。
「お疲れ様です、姫様。本日はお早かったのですね」
「ええ、今日は……あなたに渡したいものがあったの」
私は手に持っていた書状を差し出した。
アイリスは戸惑いながら、それを受け取った。
「これは……?」
「私の直属の付き人に任命する申請書。 すでに上層部には通っている。……つまり、あとはあなたが“了承する”だけ」
アイリスは驚いたように私を見た。
「なぜ、私などを……」
「“私のそばにいてほしい”からよ」
私はまっすぐにそう言った。
「あなたの紅茶が、あなたの声が、あなたの沈黙が、私にとって“日常”になったの。 だから、それをこれからも、ずっと……そばで感じていたい」
アイリスはしばらく黙って書状を見つめ、そして静かに、けれどしっかりと頷いた。
「……光栄です。わたくしでよろしければ、姫様のおそばに」
その返事に、私は思わず少し息を詰めて、それから小さく笑った。
午後の紅茶が、そっと湯気を立てた。 その香りは、今までで一番穏やかで、優しく──そして、希望の味がした。
*
「……ということは、今後は“公務”にも同行することになるのでしょうか?」
「ええ。今後、式典や外出、公式の食事会にも。 もちろん、私の自由時間──この紅茶の時間も、すべて、あなたがいてくれたら嬉しい」
アイリスは少しだけ顔を赤らめて俯いた。
「……責任が重くなりますね」
「その分、特別な立場でもあるわ」
私はからかうように笑い、手元のカップを傾けた。
「それに──あなたがいてくれるなら、どんな退屈な会議も乗り越えられそう」
「……姫様」
「それくらい、あなたを頼りにしてるのよ。……言葉にすると照れるけど」
アイリスが静かに笑った。 その微笑みが、たまらなく愛おしいと思った。
私はこの任命を“政務上の必要”という理由で通した。 けれど本当は、心があなたを呼んでいた。
この紅茶の時間が、次は“ふたりで過ごす務め”になる。
それが、とても、嬉しかった。




