第51話 沈黙の返礼(芽吹月十一日・夕刻)
芽吹月十一日、夕刻。 厨房に戻った私は、ポットを拭きながら、ぼんやりと午後の紅茶の余韻を思い返していた。
姫様は、いつも通りだった。 けれど、その“いつも”の中に、どこか温かさと、緊張と、覚悟のようなものが混ざっていた。
そして、私自身もまた──
(……何も、返せなかった)
“好き”という言葉。 それを受け取った朝の紅茶。
私は確かに、何も答えていない。 ただ、沈黙して、笑って、カップを差し出しただけ。
(それでも、姫様は午後も変わらずに、来てくださった)
私の中にある気持ちは、まだ名前を持っていない。 けれど、それでも何かを伝えたくて。
私は午後の紅茶を、“おだやかな午後”という名で仕上げた。
「……受け取っていただけて、嬉しかったです」
ひとりごとのように、私は呟いた。
そのとき、背後から声がした。
「なーんか、幸せそう」
「カレン。いつからそこに」
「えーっと……“カップを拭いてはため息をつく”あたりから」
「……かなり前ですね」
「で、どうだったの? 午後のふたり分」
私はカレンの視線を避けながら、ポットの蓋を丁寧に磨いた。
「……“おだやか”だった、と思います」
「ほう、“平常心装って本心はドキドキ午後”ですね」
「そんなブレンド名ではありません」
カレンはにやにやと笑いながら、勝手にティーカップを並べ始めた。
「でも、わかりやすかったよ。姫様も、アイリスも、目線がカップのふちに固定されすぎ」
「……緊張していたのだと思います」
「どっちもね。姫様、今日ポケットに手入れっぱなしだったし」
私はその言葉に、はっとした。
(……何か、持っておられた?)
「カレン。姫様は、何か……」
「んー、見てないけど。たぶん“渡そうとして渡せなかったもの”があったんじゃない?」
(贈り物──)
私は、もう一度、あの時間の姫様の仕草を思い返した。 カップに触れる手。 視線の揺れ。 言葉にしない空気。
「……明日も、変わらず“ふたり分”を用意いたします」
その中に、今日伝えられなかった“ありがとう”と“まだ答えられません”を込めて。
沈黙は、ときに最大の返礼になる。 でも、私は明日もまた、紅茶の温度に自分の想いを乗せるつもりだった。
カレンは笑いながら、お皿を拭き終えた。
「よーし、じゃあ明日の紅茶は“恋はまだ香りの段階”でどう?」
「それだけは絶対に却下します」




