第50話 特別な贈り物は、まだ渡せない(芽吹月十一日・午後/姫様視点)
午後、私は東庭に足を運ぶ直前で足を止めていた。
ポケットの中には、小さな銀の箱。 その中身を取り出すことは──今日も、できなかった。
(どうして、こんなに難しいのだろう)
朝の紅茶で、私は確かに“好き”と伝えた。 ほんの一言。 けれど、アイリスは驚いた顔ひとつせず、少しだけうつむいて、静かに受け取ってくれた。
(……嬉しかった)
それは嘘じゃない。 でも、もし“それ以上”を願ったら──この距離が壊れてしまうかもしれない。
「もう少し、このままでいたいの」
誰にともなく呟いて、私はそっと箱に指を添えた。
贈り物を渡すということは、気持ちを“形にする”ということ。 その瞬間、すべてが変わってしまう。
(アイリスが、遠くへ行ってしまいそうで)
今日も、私は結局、箱を懐にしまったまま東庭へと向かった。
*
アイリスはいつも通りだった。 けれど、今日の紅茶は少しだけ香りが甘くて、飲み終わる頃には胸が熱くなった。
「……今日は、少し柔らかい味ですね」
「はい。本日は“おだやかな午後”をイメージして仕上げました」
「……とても、優しかった」
言葉にするのが、やっぱりまだ少し照れくさくて、私は紅茶のふちを見つめた。
(いつまでこうしていられるんだろう)
この時間を壊したくないと願えば願うほど、 “渡したい”気持ちと“渡せない”不安がせめぎ合う。
沈黙が少し長く続いて、ふたりの間に流れる空気が、やわらかくも緊張していた。
そんな時、アイリスがふとカップの中を覗き込みながらぽつりと呟いた。
「……もう少しだけ、紅茶をお淹れしてもいいですか」
「もちろん。まだ、飲み足りないわ」
そうして注がれた二杯目は、ほんの少しだけ温度が高く感じられた。 それはたぶん、紅茶のせいだけじゃない。
「姫様」
「うん?」
「……本日も、お越しいただき、ありがとうございました」
「ふふ。どういたしまして」
たったそれだけのやりとりが、どうしようもなく嬉しくて、 私はうっかり、カップを握る手に力を込めすぎてしまった。
(伝えたい。渡したい。でも、まだ……)
でも、今日ひとつだけ決めたことがある。
(明日、もし……いつものように、ふたり分の紅茶を用意してくれていたら)
その時は、ちゃんと伝えよう。 言葉じゃなくてもいい。 このスプーンに託して、“あなたのそばにいたい”という気持ちを──
だから今日は、もう少しだけ勇気を温める時間にしよう。
東庭に吹く風が、今日も優しく香った。 それはまるで、次の紅茶の時間への合図のようだった。




