第5話 心ここにあらず(王城歴1349年 春月二十六日)
春月二十六日。昨日よりもさらに暖かい陽気が東庭を包んでいた。
──本来なら、私はその風の中にいるはずだった。
「……休暇日が、今日と重なるとは」
洗濯場の一角、束ねた布の上に座って、私は小さくため息をついた。
本日は当番交代の関係で、私の担当業務は“なし”。月に一度の半日休暇だった。 少し遅めに起き、朝の支度もゆっくりと済ませ、ひさしぶりに中庭で陽を浴びて過ごす予定だった。
けれど。
「……どうしてこんなに、落ち着かないのでしょう」
手元には昨日の姫様からもらった紅茶の空き瓶。返却しようと思って持ってきたものの、渡す機会はない。 なぜなら、私は今日、東庭には行かないと決めたのだから。
そもそも、姫様が毎日来るとは限らない。今朝も、ただの気まぐれで現れないかもしれない。そう思っていた。 昨日の様子は、どこか“特別”な空気があったようにも感じたけれど、それでも姫様は王族であり、私は一介の使用人。 過剰に意味を見出してはいけない。
……けれど。
東庭が静かなままであるという確信が、なぜか持てなかった。 姫様がそこに立ち、こちらに微笑む姿が、どうしてか頭の片隅から離れない。
「……ちょっとだけ、様子を見に……」
と、言い訳を口にしながら私は立ち上がる。 だがその足は東庭へは向かわず、寮舎の裏手へと逸れた。 自分の行動に苦笑しながら、私は空を仰ぐ。
「何をやっているのやら……」
遠く、塔の上にかかった旗が、春風に揺れていた。
(同時刻、東庭)
「……いない」
姫様ことセレナ・フィリア・ヴァルテリナは、見慣れた東庭に立ち尽くしていた。
昨日と同じ時間、昨日と同じように花壇の前に現れたが、そこにいつもの“使用人”の姿はなかった。
「今日は……掃除当番が違う?」
自分で問い、自分で否定する。王族が知るはずもない業務の割り当てにまで思いを巡らせている自分に気づき、少しだけ頬を膨らませた。
「それとも……寝坊? いや、アイリスに限っては……いや、でも昨日ちょっと顔赤かったし……風邪?」
どんどん深みにハマっていく姫様の思考。
「まさか……私の紅茶が不味かったから?」
そんなことを真顔でつぶやいてしまい、思わず自分でハッとする。
「ち、違うわよね!? あれは完璧な調合だったはずだし!」
花壇の前でひとり、白髪の姫君が紅茶の品質について熱弁している。 その姿を見た通りすがりの侍女が、そっと足音を忍ばせて退散したのは言うまでもない。
「……べ、別に、会いたかったわけじゃないのに」
口をついて出た言葉に、自分でも一瞬きょとんとする。そうしてから、思わず咳払いをした。
「ま、まあいいわ。来なかったのは仕方ないし。王族はもっと堂々としていなきゃ……ふふん」
しかし、誰もいない庭で鼻を鳴らしても、風しか返してはくれなかった。
姫様はそれからしばらく、そこに腰を下ろしてぼんやりと花を見ていた。 誰にも気づかれず、誰とも話さず、ただ静かに過ごす時間。
「……アイリスがいないと、なんだか味気ないのね」
その呟きは風に溶けて、誰にも届かない。
「……明日はちゃんと、いるでしょうね。でなきゃ、“第二回紅茶会”が開催できないんだけど」
そう呟いて、姫様は名残惜しげに振り返った。
東庭には春風だけが吹いていた。