第48話 ふたり分の温度(芽吹月十一日・早朝)
芽吹月十一日、早朝。 私はいつもより早く目を覚ました。 夢を見ていたのかどうかも覚えていない。 ただ、胸の奥に残っているのは、何かが“近づいてきている”という予感だった。
厨房に入り、昨日の夜に調整したブレンドをもう一度見直す。 ラベンダーをほんのひとつまみ。 緊張をほどく、穏やかな香りを重ねる。
(今日は、何かが変わるかもしれない)
そんな予感を抑えるように、私は一連の動作を繰り返す。 湯を沸かす。 ポットを温める。 茶葉を量る。 まるで呪文のように、それらを何度も、正確に。
東庭へと向かうと、まだ朝露が残る石畳の上に、先客がいた。
「……おはよう、アイリス」
姫様だった。 いつもよりも早く、しかも私よりも先に、ここにいた。
「おはようございます、姫様」
「早いね。……今日は、眠れなかったの?」
「いえ。目が自然と覚めまして」
「……ふふ、似たような感じだね」
ふたりは自然に、いつもの席に座った。 けれど、“いつも通り”の中にある微かな緊張が、湯気の向こうに確かに感じられた。
「今日の紅茶は……何か、違う気がする」
「はい。昨日までの味に、少しだけ柔らかい香りを加えてみました」
「ラベンダー……かな? 落ち着く。なんだか、今の自分にちょうどいい」
姫様は、カップを両手で包みながら、ほんの少し目を伏せた。
「ねえ、アイリス」
「はい」
「今日も、“ふたり分”を、ありがとう」
私は頷いた。けれど、その言葉の重みが、いつもよりも深く胸に残った。
「……姫様。紅茶の“ふたり分”とは、どういう意味だと思いますか?」
問いかけたあとで、自分でも驚いた。 けれど姫様は驚くでもなく、そっと笑った。
「たぶん、それは……“誰かを想っている”ってことだと思う」
私は、ほんの少しだけうつむいた。
「もし、そこに名前をつけるとしたら?」
姫様は静かに、けれどはっきりと口にした。
「“好き”……かな」
その言葉は、柔らかくも、確かに届いた。
私の中で、何かが溶け出していくのを感じた。 そして、今まで通りではいられない気がしていた。
けれど、逃げたいとも思わなかった。
「……それは、紅茶の味にも影響するのでしょうか」
「すると思う。だって、今日の紅茶、ちょっとあたたかい気がするから」
私はそっと、自分のカップを見つめた。 確かに、熱いわけではないのに、指先が少しだけぬくもりを帯びていた。
「姫様……」
「うん?」
「わたくしは……この“ふたり分”を、これからも変わらずに淹れていきたいと思っております」
姫様は笑った。 とてもやさしく、どこか安心したような笑みだった。
「それ、嬉しい。……じゃあ、明日も、ここで」
「はい。明日も、ふたり分を」
ふたりは少しだけ笑って、静かにカップを傾けた。
朝の光が差し込む中、ふたり分の紅茶から立ち上る湯気だけが、今日の“特別”をそっと告げていた。




