表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/100

第47話 銀の箱と、秘密の午後(芽吹月十日・夕刻/姫様視点)

 東庭には行けなかった。  朝の紅茶のあと、急な視察の報告で城外の工房を訪れることになった。  馬車に揺られているあいだ、私は何度もポケットの中を指でなぞった。


 (今日こそ渡そうと思っていたのに……)


 リンドウの花が刻まれた小さな紅茶スプーン。  わざわざ工房に依頼して仕上げてもらった、特別な贈り物。


 その銀色のスプーンは、陽の光の下では柔らかく輝き、手のひらに乗せるとひんやりしていて、まるで──  まるで、あの子がいつも朝に淹れてくれる紅茶のような存在だった。


 「“アイリスらしいもの”を、と言ったら、職人のひとりが“やわらかい光を宿す銀”が合うと言っていた」


 光の中で鈍く光る、銀色のそのスプーン。  言葉にせずとも、今の私の想いが全部そこにこもっている。


 でも、それをまだ渡せないのは──


 「……怖いんだ、私」


 ポツリとこぼした言葉が、馬車の揺れとともに空に溶けていく。


 アイリスは、きっと気づいていない。  でも、私の心は、日々の紅茶のやりとりの中で、少しずつ溶けて形を変えていった。


 最初は、ただの興味だった。  「礼儀正しくて、手際がよくて、でも不思議なくらいに他人と距離を取っている子」  それだけだったはずなのに──


 「あなたの紅茶には、理由がある。想いがある。……そう思って、好きになったの」


 あの言葉を、言ってしまいたいと思ったことは、何度もある。  でも、言えばきっと彼女は……眉をひそめて、困ったように「恐縮です」と答えるのだろう。


 そして次の日から、紅茶がひとり分になってしまったら──そう考えると、どうしても怖くなった。


 「“いつも通り”が、壊れてしまうのなら」


 そばにいることだけで満足しよう。  名前のない気持ちでも、それでいい。


 ……そう思っていたのに、今朝の彼女の手が、少し冷たくて、  そのことを何も言えなかった自分に、私はまた後悔していた。


 (私がもう少し強かったら)


 (あと一歩だけ、勇気があったら)


 この銀の箱も、もうとっくに彼女の手元にあったのかもしれない。


 「でも……もし明日も会えるなら」


 私は、そっと胸元の銀の箱に触れた。


 明日も、彼女が“ふたり分”の紅茶を用意してくれるのなら。  今度こそ──この箱を、笑って渡せるように。


 渡して、驚いた顔が見たい。  そして、いつものようにあの丁寧な口調で「ありがとうございます」と言ってほしい。


 けれど今度は、そこにほんの少しだけ、戸惑いじゃない“温度”があればと、そんなわがままを思ってしまう自分がいた。


 夕暮れの空は、ほんの少しだけリンドウ色に染まっていた。  まるで、今日も贈れなかったこの気持ちを、静かに包み込むように。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ