第47話 銀の箱と、秘密の午後(芽吹月十日・夕刻/姫様視点)
東庭には行けなかった。 朝の紅茶のあと、急な視察の報告で城外の工房を訪れることになった。 馬車に揺られているあいだ、私は何度もポケットの中を指でなぞった。
(今日こそ渡そうと思っていたのに……)
リンドウの花が刻まれた小さな紅茶スプーン。 わざわざ工房に依頼して仕上げてもらった、特別な贈り物。
その銀色のスプーンは、陽の光の下では柔らかく輝き、手のひらに乗せるとひんやりしていて、まるで── まるで、あの子がいつも朝に淹れてくれる紅茶のような存在だった。
「“アイリスらしいもの”を、と言ったら、職人のひとりが“やわらかい光を宿す銀”が合うと言っていた」
光の中で鈍く光る、銀色のそのスプーン。 言葉にせずとも、今の私の想いが全部そこにこもっている。
でも、それをまだ渡せないのは──
「……怖いんだ、私」
ポツリとこぼした言葉が、馬車の揺れとともに空に溶けていく。
アイリスは、きっと気づいていない。 でも、私の心は、日々の紅茶のやりとりの中で、少しずつ溶けて形を変えていった。
最初は、ただの興味だった。 「礼儀正しくて、手際がよくて、でも不思議なくらいに他人と距離を取っている子」 それだけだったはずなのに──
「あなたの紅茶には、理由がある。想いがある。……そう思って、好きになったの」
あの言葉を、言ってしまいたいと思ったことは、何度もある。 でも、言えばきっと彼女は……眉をひそめて、困ったように「恐縮です」と答えるのだろう。
そして次の日から、紅茶がひとり分になってしまったら──そう考えると、どうしても怖くなった。
「“いつも通り”が、壊れてしまうのなら」
そばにいることだけで満足しよう。 名前のない気持ちでも、それでいい。
……そう思っていたのに、今朝の彼女の手が、少し冷たくて、 そのことを何も言えなかった自分に、私はまた後悔していた。
(私がもう少し強かったら)
(あと一歩だけ、勇気があったら)
この銀の箱も、もうとっくに彼女の手元にあったのかもしれない。
「でも……もし明日も会えるなら」
私は、そっと胸元の銀の箱に触れた。
明日も、彼女が“ふたり分”の紅茶を用意してくれるのなら。 今度こそ──この箱を、笑って渡せるように。
渡して、驚いた顔が見たい。 そして、いつものようにあの丁寧な口調で「ありがとうございます」と言ってほしい。
けれど今度は、そこにほんの少しだけ、戸惑いじゃない“温度”があればと、そんなわがままを思ってしまう自分がいた。
夕暮れの空は、ほんの少しだけリンドウ色に染まっていた。 まるで、今日も贈れなかったこの気持ちを、静かに包み込むように。




