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第43話 伝わらないままのやさしさ(芽吹月九日・夕刻)

 日が傾き始めると、東庭は昼間とは違う色を帯びてくる。  風は冷たくなり、空はオレンジ色に染まり、影が長く伸びる。


 私はひとり、使い終わったカップを洗い終えて、まだ温かいポットをそっと拭いていた。


 姫様が帰られたあと、私はなぜかすぐには動けなかった。  胸のどこかに、うまく言葉にできない感情が残っていた。


 「……“午後のやさしい波紋”か」


 姫様がつけたその名前を、私は何度も心の中で繰り返す。  やさしいのに、どこかふれると揺れてしまいそうな──そんな名前。


 東庭の片隅で、木の葉が一枚落ちた。


 私はその音にふと顔を上げたとき、自分の中の違和感が“輪郭”を持っていることに気づいた。


 (姫様は……何か、言いかけていた)


 私の指先を見ていたとき。  そして、午後の光の中で沈黙していたあの瞬間。


 「……けれど、私にはわかりません」


 わかりたいと思う気持ちはある。  けれど、“やさしさ”が何を包んでいるのか、私にはまだ掴めなかった。


 その夜、私は珍しく、厨房の奥でひとり試作のブレンドに没頭した。


 香りの構成を繰り返し、配合を何度も変え、気づけばテーブルの上にはポットが三つも並んでいた。


 「……どれも、違う気がします」


 私の想いが乗らない紅茶は、どこか空っぽに思えた。


 「ほんと、アイリスって難しいねぇ」


 いつの間にか後ろに立っていたカレンが、ため息混じりに呟いた。


 「……カレン」


 「姫様に何か言われたの?」


 「いえ。ただ……言葉にできないやさしさ、というものがあるのだと思いました」


 「じゃあ、アイリスはそれをどうしたいの?」


 私は、答えられなかった。


 答えようとしても、口の中に言葉が生まれる前に、香りや記憶のようにぼやけてしまう。  姫様の笑顔、午後の紅茶、そして沈黙。  それらがすべて、私の中でふわふわと浮かんでいて──それでいて、まだどこにも着地していなかった。


 「……それを理解できたら、紅茶の味も変わる気がします」


 「じゃあ、答えが出るまでブレンド修行続けるしかないね」


 カレンはおどけたように言って、椅子に深く腰を下ろした。


 「でもさ、姫様ってアイリスにすっごく距離近いのに、なんで気づかないんだろって思ってたけど」


 「……私が、鈍いのでしょうか」


 「違うね。たぶん、怖いんだと思う」


 「怖い……?」


 「そう。気づいてしまったら、今の関係が変わっちゃうかもしれないから」


 私はその言葉に、思わず息を呑んだ。


 変わること。  今の関係が壊れてしまうかもしれないという恐れ。  それが、自分の心の奥底に確かにあることに気づいてしまった。


 「……紅茶も、淹れる相手によって変わります」


 「ふふん、つまり、姫様は“特別”ってこと?」


 「……どうなのでしょう」


 でも、そうかもしれないと思った。  姫様と飲む紅茶だけが、特別に感じられるのだから。


 私は、紅茶の香りがほんの少しだけ変わった気がした。


 次に姫様と会うとき、何かがきっと、少しだけ変わっている。  そう信じながら、私は試作ノートの新しいページを開いた。




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