第38話 夜に染まる予感(芽吹月八日・夕刻)
夕刻、東庭には誰もいなかった。 私は一度片付けたティーセットを、なぜかもう一度磨いていた。
陽が沈みかけ、庭の影が長く伸びている。 午後に姫様と過ごした時間は、穏やかで心地よかった。 けれど、胸の奥に残った“なにか”が、まだ言葉にならずにいた。
「……“好き”って、感謝や信頼とは違うのでしょうか」
小さく呟いた声が、静かな空間に消えていく。 紅茶の香りはもう冷めていた。
そこへ、カレンがひょっこり顔を出した。
「お〜い、アイリス〜、またティーセットいじってる? もう晩ごはんの時間だよ?」
「……少し、手が止まらなくて」
「おぉっと、これは重症だね。午後の“おかわり”出た感じ?」
「おかわり……?」
「姫様とのお茶の時間でしょ〜? ふたり分の紅茶って、どう考えても“特別”ってことじゃない?」
「紅茶は、飲み手のために淹れるものです。数の問題ではありません」
「はいはい、そうやって真面目に返されると、こっちが恥ずかしくなるからやめて?」
私は苦笑しながら、ティーカップを丁寧に伏せた。
「……姫様が、今夜は遅くなるそうです」
「へぇ。なーんだ、会えないの? 残念だね〜」
「……はい」
思わず返事が遅れる。 その“はい”に、少しだけ含まれていた感情を、私はまだ自覚していなかった。
カレンはそんな私を見て、じとっとした視線を送ってくる。
「うーん、その顔、完全に“気づいてないふりしてる好き”だな」
「何か言いましたか?」
「いえいえ〜? 紅茶の話しかしてないです〜」
そう言いながらも、彼女は私の背後に回り、肩をぽんぽんと叩いた。
「でもまあ、今のアイリスは、ちょっとずつ変わってると思うよ。前より、悩んだり迷ったりする顔が増えたから」
「……それは、悪いことでは?」
「逆。人間味あって良き!」
彼女はにっと笑い、厨房へと引き返していった。
私は残されたティーセットを見つめ、静かに息を吐いた。
「……明日も、姫様が来てくれますように」
それは、祈りではなく──ごく自然な願い。
その夜、私は久しぶりに試作ノートを開いた。 “ぬくもりの午後”の派生ブレンドを考える。 朝と昼の間、午後と夕刻の狭間──その曖昧さをどう表現すればいいのか。
(……“黄昏の余韻”)
名前だけ先に決まった。 味は、まだ思い浮かばない。 でもきっと、姫様と飲めば、ふたりで決められる。
私はひとり、笑みをこぼした。
明日も、ふたり分の紅茶を用意して──その続きを迎えられますように。




